フランス国王ルイ・フィリップ肖像画
フランス国王ルイ・フィリップ肖像画
フランス王妃マリア・アメリ肖像画
フランス王妃マリア・アメリ
ルイーズ・マリー・ドルレアン(ニケーズ・デ・ケイセル)肖像画
ルイーズ・マリー・ドルレアン(ニケーズ・デ・ケイセル)
ベルギー王妃ルイーズ・マリー・ドルレアン肖像画(フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター
ベルギー王妃ルイーズ・マリー・ドルレアン(フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター
ベルギー国王レオポルド一世肖像画
ベルギー国王レオポルド一世
王女シャーロット・オブ・ウェールズとザクセン=コーブルク公爵レオポルド(ジョージ・ドウ)肖像画
王女シャーロット・オブ・ウェールズとザクセン=コーブルク公爵レオポルド(ジョージ・ドウ)
コンピエーニュ城写真
コンピエーニュ城
レオポルド一世とルイーズ・マリー・ドルレアンの結婚絵画
レオポルド一世とルイーズ・マリー・ドルレアンの結婚
ラーケン王宮写真
ラーケン王宮
1833年か1834年に、長男のルイ・フィリップ王子を抱いている、ベルギー王妃ルイーズ・ドルレアン(アンリ・デスカイネ、ヴェルサイユ宮殿)肖像画
1833年か1834年に、長男のルイ・フィリップ王子を抱いている、ベルギー王妃ルイーズ・ドルレアン(アンリ・デスカイネ、ヴェルサイユ宮殿)
ベルギー国王レオポルド一家の肖像
ベルギー国王レオポルド一家の肖像

ルイーズ・マリー・テレーズ・シャルロット・イザベル・ドルレアンは、一八一二年の四月三日に、オルレアン公ルイ・フィリップと、両シチリア王国王女マリア・アメリ・テレーザ・ド・ブルボンの長女として、パレルモで誕生する。 ルイーズの父オルレアン公ルイ・フィリップは、フランス革命の影響により、1806年、シチリアに亡命した時に出会ったシチリア王女マリア・アメリと1808年に結婚し、それからはオルレアン公一家は、シチリアのパレルモで暮らしていた。

ルイーズは、信心深く、また芸術的な才能を持った女性だった。彼女の家庭教師には、マレ夫人、ボワーニュ夫人、ジャンリス夫人が付けられた。 そして文学、歴史、地理学、数学、植物学、物理学、科学の科目を、勉強した。 更に英語、ドイツ語とイタリア語を勉強した。 ルイーズは、素直な生徒だったが、多くの科目を勉強するのは、やはり大変だったようだ。

 

 

 

彼女は読書する事を、情熱的に好んでいた。 1830年の5月11日に、ルイーズはこう書いている。 「私は、完璧に英語を理解する事ができます、 私はその言葉を流暢に話します、流暢に書きます。

しかし、それを勉強する事は、大変な事でもあります。 でも、やはり、それはより多くの喜びの方を与えてくれます。

私はバイロンを読みました、それからシェイクスピアとウォルター・スコットも。」 この他にもルイーズ達オルレアンの子供達は、絵画を、情熱的に好んでいた。 完璧な姿の絵を描く、特に、有名な花の宮廷画家ピエール・ジョゼフ・ルドゥーテ、水彩画家のウジェーヌ・ラミ、ロマン主義の画家のアリ・シェフェールなどが好きだった。

ルドゥーテは、ベルギーのリュクサンブール州の町サン・チュベール出身の、画家だった。 オルレアン公ルイ・フィリップは、マリア・アメリとの結婚から五年後の1814年の9月に、家族を連れてパリへと帰還した。 しかし、1815年に、政治情勢の変化により、再びイギリスへの亡命を余儀なくされた。しかし、パリの政情も安定した二年後の、1817年の春に、オルレアン公一家は、再びパリへと帰還した。そしてヌイイ城を手に入れ、そこに居を構えた。

 

 

 

1820年の9月、フランス国王シャルル十世がその反動的な政治政策で国民の信望を失い、七月革命で退位した後、1830年にルイーズの父オルレアン公ルイ・フィリップが新国王として迎えられた。レオポルドはヴィクトリア女王の母方の叔父に当たり、元々はザクセン・コーブルク・ゴータという、小国の公爵の次男に過ぎなかった。 彼は1815年にイギリスを訪れた時に、イギリス国王ジョージ四世の一人娘シャーロット・オーガスタと出会い、翌年に結婚していた。ジョージ四世には息子がおらず、将来的にはシャーロットが女王として即位する可能性が高く、また夫のレオポルドにイギリス王位を約束してくれる可能性もあった。しかし、1817年にシャーロットは生まれた長男と共に、死去してしまった。イギリス王女シャーロットの両親のジョージ四世と王妃カロリーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルは不仲であり、またジョージ四世が、全く家庭を顧みない放蕩者であった事もあり、その結果シャーロットは放任気味になり、ややわがままに育てられていた。

 

 

 

 

彼女は陽気な女性であり、激しさもある彼女の性格を、レオポルドは刺激的に感じ、好んでいたらしい。 やもめになった彼は、その後イギリスに留まり、ケンダル公として帰化した。

1830年に、独立を果たしたばかりのギリシャから国王の地位を打診されたが、レオポルドはこの話を断った。

今度は1831年に独立したベルギーから同様の打診があり、レオポルドはこれを承諾した。 1831年にレオポルドから結婚が申し込まれた時、最初、ルイーズはレオポルドが自分より22歳も年上で、すでに結婚歴がある男性である事から、彼との結婚にはっきりとした拒否感を示した。

彼女の両親も、彼がやもめである事や、ルイーズの父ルイ・フィリップのザクセン・コーブルク・ゴータ家は、堅苦しく面白みのない家風という印象もあり、あまりこの縁談には乗り気ではなかった。

しかし、特にルイーズの母マリア・アメリが、ルイーズが19歳になっても、同じカトリックの良い結婚相手を見つけてやる事ができないのを申し訳なく思っており、このままでは娘が婚期を逃すのではとの心配から、ルイーズとレオポルドの結婚に賛同した。

その後ルイーズは、ヌイイとイギリスのトゥイッケナムで二回程、彼と家族と共に会ったが、その時彼女の感じたレオポルドの印象は、むっつりとして冷ややかな感じで近寄りがたい、という、あまりいいものではなかった。

 

 

 

一方ルイーズは、初めレオポルドとの結婚に拒否感を示した時の上記の理由の他にも、 これまでに会った時の彼の様子などからも、彼がとても自分に関心があるようには思えないという理由からも、この縁談に不安を感じ、1831年の春に、その気持ちを友人のアントニーヌ・ド・セルに宛てた手紙の中でも、打ち明けている。

「彼は、ただ通りを通過する人と同じくらい、私に無関心です。私がオルレアン王家の王女であるために、犠牲にならなければならなさそうで、とても面倒です。」

1832年の5月の終わり、ついに曖昧な表現に飽きた国王レオポルド一世は、自身でフランスへ向かった。そして、5月29日、彼の秘書がすでに待っているコンピエーニュ城に到着した。そこには、彼の侍医とベルギー人の公式代表団も 待っていた。

そしてルイ・フィリップとマリア・アメリも、 そこで合流した。 彼らは今回のベルギー国王レオポルドとフランス王女ルイーズとの縁談について話し合い、この結婚がルイーズの幸せになるものであるという結論に達した。

しかし、ルイーズ本人は、そうは思っていなかった事を、彼女の家庭教師だったボワーニュ伯爵夫人が明かしている。

「王女は、これが不合理な強制である事を知っています、そして三ヶ月の間、王女の説得が行なわれました。」

ルイーズのこのような態度は、叔母のマダム・アデライードも、批判した。

「この結婚は、ルイーズにとってチャンスです・・・・・・そしてフランスにとっても。

この縁談にそこまでのためらいを見せるのは、 道理に合いません、またレオポルドに対しても失礼な事です。宗派の違いも、そんなに重要な問題ではありません・・・・・・」

 

 

ルイーズは、たくさんの涙を流した。

しかし、最終的に彼女は折れ、レオポルドとの結婚に同意した。

8月5日の正午頃、フランス国王一家は、雨の降る中、大型のベルリン型自動車で、 ホテルの「タミス」に到着した。

しかし、この期に及んでも、相変わらずの深い悲しみようの娘ルイーズを、国王と王妃は心配した。そして、なかなかホテルへの道のりを進もうとしないルイーズを見かねた妹のマリーが、ドレスが濡れてしまうから早く行きましょうと急かした。

結婚までに数回、ルイーズは再び家族も交えて レオポルドと会ったが、やはり、この結婚を悲しく思う彼女の気持ちは変わらなかった。 レオポルド一世とルイーズの結婚式は、1832年の8月9日に、コンピエーニュ城の礼拝堂で、行なう事が決められた。 コンピエーニュ城に向けて、花婿と花嫁が出発した。 大勢の行列に、天蓋付きの金色の四輪馬車。コンピエーニュ城での道程には、旗が飾られ、民衆達が喝采していた。

 

 

 

1832年の結婚式の当日、王妃マリア・アメリの部屋で、花嫁の支度が行なわれた。

まず初めに、ルイーズのヘアスタイルの支度が始められ、彼女の頭にはロマンチックなヘアバンドと長いヴェールが付けられ、オレンジの花の花束が持たされた。

そして付き添っていたマダム・アデライードが、 この時のルイーズの様子について言っている。「彼女は、レオポルドが用意してくれた、 ベルギーのマリーヌ(メッヘレン)製の素晴らしい 白いレースのウェディングドレスを着ていた、 そしてこれも婚約者の贈り物の装身具には、 ネックレスとイヤリングとメダルがあった。」。

花嫁は、魅力的だった。

しかし、この時の彼女は悲しみに蒼白になった、 哀れな様子だった。

そして花婿のレオポルドの方は、華やかな軍服姿に用意していた。

その後、室内には婚礼の大勢の招待客達が集まってきたが、 夏の季節であり、室内は暑くて息苦しかった。

テーブルの中央には、花婿と花嫁、そして国王ルイ・フィリップと王妃マリア・アメリが、右側には王子達、 左側には王女達が座っていた、そしてその他にはベルギーからの数人の立会人、そしてフェリックス・メロード伯爵と大元帥の アールスコート伯爵、そして8人のフランスでの立会人や、大臣達 招待客達が入ってきて、着席した。

やがて司教が短く感動的な話を始めた、その後、花婿と花嫁の相互の結婚申込書を承認した。

 

 

 

 

その後、新郎が新婦の指に指輪をはめる間に、祈りの言葉が始められた。 教会から出た後、ルイーズは家族達と涙とキスの抱擁をし合った。特に、末っ子の小さな8歳のモンパンシエ公アントワーヌは、一番激しく泣いて姉との別れを悲しんだ。

一方、オルレアン一家のこのような感情が溢れ出す様を見ていたレオポルドは、冷ややかな態度でこの光景を眺めていた。

この時の彼には、このような感情の高まりは、欠けていた。

このように、結婚をした事への幸福感とは程遠かった彼だが、この結婚が実現した事への勝利感は感じていた。なぜなら、このフランス王女との結婚によるフランスとベルギーとの同盟は、ベルギー国王となった彼にとっては、ベルギーの勢力拡大の野望の第一歩に当たるからである。

そして次の一手は、ゆくゆくは自分の甥アルバートと数年後にイギリス女王として 即位する事になる、姪のヴィクトリアを結婚させる事だった。 この時依然として、 レオポルドが思い続けていた女性は、 15年前に死んだ前妻のシャーロットだった。

 

 

 

3日間の間、結婚の祝宴が催される事になった。 この間ルイ・フィリップは、花婿のレオポルドとコンピエーニュの森へと散歩に出かけ、 道すがら外交と、フランス国内の企業のベルギーへの誘致についての約束をしていた。 10日の夕方、新郎新婦とオルレアン家の人々は、喜劇を観劇した。

8月12日の日曜日には、遠出が行なわれた。 この日、ルイーズは友人で信頼しているドゥニーズ・ドルストに、一緒にベルギーにお供としてついてきてくれないかと相談した。 「どうか私と一緒に来てください、ドゥニーズ、あなたは私の名誉ある女官です。

あなたには、女官長として、宮廷を取り仕切って欲しいのです。」。

これに対し、驚いた彼女はこう書いている。「私の小さな王妃は、それが難しい願いである事を知っていました、 あなたは、もうフランスの王女ではありません、これからはベルギーの王妃になられるのです・・・・・・そして、あなたの女官には、ベルギーの女性が選ばれるのでしょう。そして、私にはこのフランスに夫がいます、そして娘もいます。 私はフランスにいても、ずっとあなたの事を思っています、結局、手紙のやり取りをする、という事で話し合いがつきました。」 。

 

 

 

この1832年、国王ルイ・フィリップの長女ルイーズの今回の結婚を巡り、一家の人々には、感傷的な感情と涙が溢れていた。

しかし、ルイーズの妹のマリーはこれら、姉の結婚を巡る自分達一家の様子に、新郎のレオポルドが無関心であるばかりか、どこか嘲笑的ですらあるのを、確信していた。 結婚式から4日後の8月13日、新婚夫婦はベルリン型自動車で、ベルギーに向かって出発した。気を取り直し始めたルイーズは、持ち前の機知で、夫レオポルドとの間の雰囲気を、和ませようとした。

しかし、ハネムーンだというのに、レオポルドは常に堅苦しい様子だった。一方、レオポルドの方は唇を引き結んだまま、妻の様子をろくに気にもせず、北フランスの平野の方で収穫が行なわれている風景を見ていた。 この旅行においての、新婚の夫レオポルドの沈黙は、ルイーズにとって、期待はずれだった。

 

 

 

相変わらず、この時のレオポルドの心の中は、気性の激しい前妻シャーロットとの特別な結婚、どこかじゃじゃ馬慣らしにも似た、刺激的な愛の記憶で占められていたのである。 せっかくの新婚旅行だというのに、このようなわびしさを味わう事になったルイーズだが、思いもかけないベルギー人達の、自分達への大歓迎に、喜ぶ事になった。 「ラーケンの方にさしかかると、人々が喝采や花や花綱で出迎えてくれました。

彼ら住民達は、正直な歓迎の気持ちを抱いてくれているようです、そして心からの。

この温かさ。それは、大変注目に値する事です。」 。

8月20日になって、ようやく夫婦はブリュッセルに到着した。ルイーズは、22歳年上の夫からのいろいろな指導に、満足しなければいけなかった。 「彼はとても適切で、とても立派です、そして、正しく、私は彼と完全な安全と深い落ち着きを楽しんでいます。彼のまさしくその年齢は、利点です。」

レオポルドは、ルイーズの若々しさを評価していた。 二人は、ルイーズの方が左側になり、一緒に乗馬をする事があった。

 

 

 

1832年の8月の終わり、フィルフォルデの道で、 ルイーズの馬がいなくなった時に、農民が馬を連れ戻してくれた事に対して、ルイーズは気前よく報酬を与えた、しかし、レオポルドはそんな行為は王族の威厳と慎みを損なうものだとして、今後一切そのような事は止めるようにと、彼女に注意した。

自分の自然な気持ちからした行動について、夫にこのような注意をされた若妻は、悲しい気持ちになった。

新婚夫婦は、ベルギーのラーケン王宮に住む事になった。レオポルドは定期的に王宮で彼女と過ごした。

しかし、二人の性格の違いが、何かと目立った。 例えばレオポルドは、ルイーズが夕方に、女性達を招いて会話する事を、良く思わなかった。

しかし、レオポルドは現実問題として、ベルギー王国での、自分の権力確立や、ベルギーの勢力拡大のためには、妻ルイーズの父フランス国王ルイ・フィリップの後ろ盾が必要であり、何とか妻の気持ちを繋ぎ止めなければならなかった。

このため、レオポルドはロマンチストな男性を演出し、ルイーズが喜びそうな、甘い言葉のバリエーションを、いくつか用意していた。 「私の最愛の恋人」・「可愛い小さな娘」・「最愛の人ルイゼッタ」・「最愛の小さな娘」など。

 

 

 

レオポルドは、こうして純真なルイーズの心に、巧みに触れていった。

夫のこのような数々の言葉に感激したルイーズは、1832年の12月27日の、 アントニーヌへの手紙には、夫のレオポルドが自分の事を「私の最愛の小さな妻」や「美しい魂」と呼んでくれたと書いている。

しかし、1832年の12月31日に、レオポルドは、彼女があまりにも頻繁に手紙を書き過ぎると、ルイーズが親しい人々に対して頻繁に手紙を書く事を、禁止してしまった。

しかし、ルイーズはこれに対し、私から気晴らし・楽しみを奪ってしまうに等しい、意地悪だなどと反発した。

結局、彼女がこれからも頻繁に手紙を書く事は許された。

 

 

 

1833年の7月24日、長時間の難産に苦しみながら、ルイーズは長男の王子を出産した。この子は、母方の祖父のフランス国王に名付け親になってもらい、同名の「ルイ・フィリップ」と名づけられた。ルイーズは息子の誕生を喜び、こうその喜びを表わしている。「小さな頭に、全てが薔薇色をしています、笑ったり、もがいたりしています。

また、この子の左の頬にはえくぼが見えます、この子は紛れもない、宝物です。」 。

しかし、1834年の3月から、この子供は消化不良を起こしたり、咳をしてむずかるなど、体調の不調が見られるようになってきた。 心配したルイーズは、モロー医師の意見を求めた。

彼は、オルレアン家の侍医であった。

一方、レオポルドの方はイギリスの医学の方を信用していた。結局、小さなルイ・フィリップ王子のベッドの 傍らには、六人の医師が付き添い、治療法が相談された。多くの治療が行なわれたが、いずれも効果がなかった。最終的に正しい診断結果として、子供の病気は、喉頭炎あるいは気管支炎という診断が下された。

 

 

 

 

ルイーズは、高い熱と咳をする子供の様子を心配しながら、子供の病状の回復を、神に祈った。レオポルドの方は、この子供の病状に苦悩を表わした。

息子ルイ・フィリップの病状は回復せず、ついに1834年の5月16日の夕方、高熱で息を引き取ってしまった。わずか生後数ヶ月の命だった。

ルイーズもレオポルドも、この息子の死を悲しんだ。「 我々は我々の相互の痛みと我々の相互の愛情で、大きな慰めを引き出します。」 そしてレオポルド一世は、再び息子を失なった、彼にとってこの息子の哀悼は、 特に残酷だった。

父親としての悲しみからだけではなく、ベルギーの王位継承者を、失なってしまったからである。 また、夫のこのような深い苦悩を見ているルイーズも、更に今回息子を失なってしまった事への苦悩を感じた。

 

 

 

ルイーズは、政治的関心が強く、新生ベルギー王国の政治にも、関心を示していた。 ルイーズは、ベルギーの通貨は、フランにしたらどうかと、虚しい提案を夫にしてみた。  しかし、レオポルドはこの提案を拒否した。 失望したルイーズは、こう反論した。

「私はこうすれば、ベルギー国内の経済の発展に、繋がると思ったからです。」。

ルイーズの夫レオポルドには、ザクセン=コーブルク家の大勢の兄姉達がいた。

レオポルドの母のアウグステ・ロイスエバースドルフは、息子のレオポルド同様、政治的手腕に長けたやり手の女性で、彼女の子供達はヨーロッパ中の王家と縁組をしていた。 イギリス王女シャーロット・オーガスタと結婚した三男のレオポルドを始め、有名な将軍家メンスドルフ=プイリー家に嫁いだゾフィー、ロシア大公に嫁いだユリアーネ、ハンガリーの大富豪のコアリー家の娘と結婚し、息子達はポルトガルとハンガリーの国王になったフェルディナントなどがいた。

 

 

 

彼女は彼らについて、日記の中で、こんな感想を洩らした。 「彼の姉のゾフィーは、コルセットの端がぎゅうぎゅうになるくらいに、太っています。また、彼の兄のエルネストは、乱暴です。」。

パリジェンヌのルイーズの視点からすると、親戚のドイツ人の彼らには、全体的に鈍重さが漂い、優雅さに欠けていると映った。「フェルディナントの方は、どこといって見栄えのしない、平凡な様子です。

ユリアーネ(ロシア大公妃アンナ・フョードロヴエナ)については、こう批評している。

「彼女は夫のロシア大公コンスタンチンとは不仲で、ずっと別居生活が続いており、一八一三年からスイス人の愛人のルドルフ・アブラハムという愛人とベルンで同居しており、軽薄で浪費家です。(結局、この夫婦は一八二〇年に離婚している。)」

メンスドルフ=プイリー伯爵夫人ゾフィー・フリーデリーケ肖像画
メンスドルフ=プイリー伯爵夫人ゾフィー・フリーデリーケ
フェルディナント・フォン・ザクセン=コーブルク・コアリー肖像画
フェルディナント・フォン・ザクセン=コーブルク・コアリー
ロシア大公妃アンナ・フョードロヴエナ(ユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザーレフェルト)肖像画
ロシア大公妃アンナ・フョードロヴエナ(ユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザーレフェルト)