ケント公夫人ヴィクトリア・メアリ・ルイーゼ画像
ケント公夫人ヴィクトリア・メアリ・ルイーゼ
ヴィクトリア女王(フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター肖像画)
ヴィクトリア女王(フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター)
プリンス・アルバート(フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター肖像画)
プリンス・アルバート(フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター)
ルイ・アドルフ・ティエール写真
ルイ・アドルフ・ティエール
フェルディナン・フィリップ・ドルレアン(シャルトル公・オルレアン公 ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル 1842年 )
フェルディナン・フィリップ・ドルレアン(シャルトル公・オルレアン公 ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル 1842年 )
ヘレーネ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーンとパリ伯フィリップ・ドルレアン(ヴィンターハルター)
ヘレーネ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーンとパリ伯フィリップ・ドルレアン(ヴィンターハルター)

この頃ルイーズは、かつて幼い時に、夫と共に会った事があるイギリス女王のヴィクトリアと再会する事になった。

すでにヴィクトリアは、十五歳になっていた。 彼女の母でこれもレオポルドの姉の一人である、ケント公夫人ヴィクトリア・メアリ・ルイーゼの再婚相手がケント公エドワードであり、その間に生まれたのが、レオポルドの姪になる、イギリスの若き女王ヴィクトリアだった。 ケント公夫人は早々に夫と死別し、幼い娘と共に、ケンジントン宮殿に住んでいた。 しかし、イギリスでの彼女はむしろ、厄介者として扱われ、また言葉もろくに通じないイギリスでの生活に不安を感じていた。そして更に、夫の遺した多額の借金にも、悩まされていた。

そんな彼女に救いの手を差し伸べたのが、弟のレオポルドだった。

彼は、前妻のジョージ四世の一人娘シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズと死別した後、ケンダル公としてイギリスに帰化しており、その頃ケント公夫人母子の面倒を何くれとなく見ていたのであった。

そしてその後も、彼は姪のヴィクトリア、そしてこれも彼の兄の息子で甥のアルバートの、良き相談相手となっていた。

ルイーズ・マリーは、成長した彼女との再会を、感慨深く感じていた。

 

 

 

レオポルドは、ベルギーの経済活性化のため、ベルギー鉄道敷設の計画を思いつく。 そして、そのための出資資金援助を、フランスと当時すでに有名な銀行家であったジェームズ・ド・ロスチャイルドに要請した。

ジェームズ・ド・ロスチャイルドは、ルイ・フィリップ治世下の年間の、「七月王政」をも、資金面から支えていた。

そして、今回も主要な出資者となったのは、このジェームズ・ド・ロスチャイルドだった。この鉄道はブリュッセルとメヘレンを結ぶ路線で、 これ以降のラインラントからオステンドまで、そしてオランダからフランスまでを結ぶための鉄道網全体の最初の一歩となった。一八三六年のこの鉄道の建設により、ベルギーの経済は、飛躍的に活性化する事になった。 果たしてその時、レオポルドは微笑んだのだろうか?

一八三五年の四月九日、レオポルドが誕生した。 レオポルド・ルイ・フィリップ・マリー・ヴィクトール。 ルイーズはこの子供に「レオ」という愛称を付けた。

この出産祝いとしてレオポルドは、彼にとって特別な女性である前妻シャーロットのお気に入りだった、エメラルドのブローチを贈った。そのブローチの中央には、梨型のエメラルドが嵌め込まれていた。

 

 

 

ルイーズはこの夫からの贈り物について「感激した」と妹のザクセン=コーブルク公爵夫人マリー・クレマンティーヌに語っている。 彼女はやっと夫が亡くなった前妻ではなく、自分の方を見てくれるようになったと思ったようだ。しかし、これは裏を返せば、依然としてレオポルドの中では現在の妻ルイーズが、前妻のシャーロットに取って代わる事は決してない、という事の現われであるとも言える。 国王は産後の妻の様子を尋ねた。

ルイーズにとって、ささやかな幸せな時だった。 シャルル・レホの記録によれば、二人は息子の誕生に大喜びだったという。

「この子は私の慰めになりました。

元気にはいはいしています。人々も皆喜んでくれています。」。

しかしルイーズは、今回の出産で大変怖ろしい思いをした。 そのため、しばらく子供の揺りかごにさえ近寄ろうとしない事があった。 そしてしばらく子供は乳母に任せきりだった。 彼女は医師や子守りに対して、生まれた子供に関して次のように言っている。

 

 

 

「面白かったのは、王国の大切な後継者は、眉毛と口元が父親のレオピシャそっくりだった事です。その上、鼻の形まで父親そっくりです。元気で綺麗な男の子です。

何より重要な事は、レオは健康である事です。がっしりとした足をしています。」。

王妃ルイーズは、落ち着きを取り戻していた。 彼女はその後、オステンドに向かう準備を始めた。 一八三五年の七月二十八日に、パリでテロが起こった。

ルイーズの父ルイ・フィリップと兄のオルレアン公フェルデイナン・フィリップを狙ったものだった。七月革命から五年目の、即位記念祭での出来事だった。

国王達はフランス国境警備隊の閲兵式に出席していた。 マドレーヌ寺院大通りから、突如火の手が上がり、その内に二十~五十人くらいの銃を構えた男達が姿を現わした。ルイ・フィリップ父子は、その銃撃で傷を負った。 二人の周囲では十一人が殺害された。そして十人が負傷した。

この事件により、フランス中は激しい不安に襲われた。 初めてのテロに遭った国王は、犯人達に重刑を宣告した。

 

 

 

当時ベルギーで王政を開始したばかりだったレオポルドとルイーズは、この事件に戦慄した。ルイーズは聡明で節度があり、知性があった。 彼女はフランス国王というのは、共和制のプロパガンダのために、繰り返し批判されるものであるという事を知っていた。「彼らの特徴は、激情的で軽率な事だ」 国王は反動的だった。

彼女とレオポルドとの違いはここがポイントだった。

「時々衝動的になるのが、フランスの欠点だ」とも彼は言った。

「これは十分深刻な事態です」ルイーズは、いまだ十分に若かったが、考え深かった。 そして彼女は自分の意見を夫に述べた。

レオポルドは意表を突かれた。

それからレオポルドは、友人で相談役のドイツ人医師ストックマーに、妻ルイーズの鋭い洞察力と的確な判断、そして鋭敏な直観力について力説した。

それを聞いていたストックマーは、やがてこう答えた。「国王の不運は、あまりにも早くにベルギーの国王になった事です。

これからは、ベルギーの平和については何でも、摂政の王妃に打ち明けられるとよいでしょう」。ストックマーのこの発言は、へつらいと言うよりは、彼自身の純然たる理論に基づいたものだった。

王妃のために認められた役割であった。

ルイーズは、こうしてようやく政治的な立場を手に入れた。

 

 

 

 

夫婦は海にバカンスに出かけた。

しかし、オステンドから道程十二時間の長旅だった。 ルイーズは、息子のレオポルド・ルイ・フィリップは乳母に任せて、ラーケン王宮に置いていく事にした。

「私の小さな宝物」。

こののん気な若い母親のルイーズにとって、息子とのしばらくの別れは、大きな気晴らしになった。ルイーズは八月十三日に、気持ちの良い海水浴に行こうと、決めていた。「八月二十日には、レオピシャと一緒に海岸を回りました」 。

アルネンバーグ公爵夫妻も、現地に到着した。 公爵夫人もこの海水浴をとても楽しみにしていて、大変寛いでいた。

男性達も女性達も入り乱れての、海水浴だった。 ベルギーの摂政職の設置は、他の誰でもないバカンスから帰った後ルイーズは、摂政としての訓練を始める。

その後夫と共に船旅で海へのバカンスに出かけ、これでルイーズの、ベルギーの政治参加への願いが叶えられる事になった。

彼女のこれまでのすっかり固定化した冴えない評価は、全て夫に押し潰されていた事が原因だった。彼女はこの一ヶ月前に、レオポルドの姪の十六歳の若いヴィクトリアと出会い、文通も始めている。

 

 

 

ルイーズは、この時既に、彼女の批評を開始していた。 「ヴィクトリアはとても小柄で、そしてずんぐりとしていた。

しかし愛想は良く、美点もいくつかあった。彼女は大きな青い瞳と美しい肌をしていた。そして、生き生きとしていた。

そして見事な髪をしていた。

彼女はイギリス王室の一員である、ケント公家の特徴を多く受け継いでいた。」。

彼女は、シャーロットにも似ていたのだろうか?と、ふとルイーズは思った。

シャーロット、またしてもシャーロット!! 

ルイーズはいくら彼女の事を考えまいとしても、夫の前妻シャーロットの事が頭から離れなかった。 この年のクリスマスに、ルイーズの母マリア・アメリの提案により、ベルギー国王夫妻とフランス国王夫妻がパリで一緒に過ごしている。

ルイーズの目は、依然としてフランスに据えられていた。彼女は母親に手紙の中でフランスの政治の動きと家族の事について知らせて欲しいと頼んでいる。

「もしお母様のご迷惑でなければ」。

 

 

 

 

七月二十八日に、フランス国王を襲撃したテロの犯人が刊行物を出版した。

一八三三年に出版されたこの刊行物により犯人は王族にとっては不愉快な、国民の尊敬を集める事になった。

「これはこの男への、神の審判を早めるに等しい事だと思います」とルイーズは、夫のレオポルドに請け負った。

「しかし、私はかつて一度もこのような事を口実に、死刑判決への署名をした事はありません」。

王妃ルイーズは、この死刑という刑罰に対して嫌悪感を抱いていた。

そして彼女のそのような姿勢の背後には、敬虔さと共に哲学的な部分も兼ね備えていた彼女の見識があった。

レオポルドは、子孫へのベルギーの王位継承を安定させる方法を考えていた。

その計画の一環として、自分の甥のアルバートと姪のヴィクトリアを結婚させる計画を進めていた。ベルギーという国は、彼にとってはあまりにも狭く、この頃、何とかして他の国々へも勢力を拡大したいという野望を抱くようになっていたレオポルドは、その一番の近道としてコーブルク家とイギリス王室を上手く結びつける事を思いつく。

 

 

 

そのためには、アルバートとヴィクトリアを結婚させる必要があった。

レオポルト゛は、ちょうど長男のレオポルド王子が誕生したこの春に、堅信礼(プロテスタントでの、日本で言う成人式に相当する儀式。)を迎えていた、ザクセン=コーブルクの、甥達のエルネストとアルバート兄弟にも会っていた。それで念のため、アルバートがヴィクトリアの結婚相手としてふさわしいか、ストックマーに見定めてきて欲しいと依頼した。その結果、彼はアルバートはヴィクトリアの相手として申し分がないという、次のような返事を伝えてきた。

「アルバート公は、とても感じの良い少年です。目鼻立ちも整っており、どこから見ても女性好みのタイプと言えるでしょう。

また幸いな事に、英国的な雰囲気を生まれつき持っておられるようです。

後は将来に向けて、アルバート公をしっかり教育しなければなりません。

イギリスには独特の風土と国民性がありますから、この点をじゅうぶんに頭に入れておく事が必要です。そして何よりも肝心なのは、正式に結婚を申し込む前に、アルバート公がヴィクトリア王女の心をうまくつかむ事でしょう。」 。

 

 

 

これを受け、レオポルドはいとこ同士の兄弟とヴィクトリアを引き合わせようと、翌年の1836年に二人をロンドンへと招待する。

そして、アルバートとヴィクトリアが寛いだ雰囲気で会えるようにと、招待の真の目的は伏せられる事になった。

そして1836年の5月18日に、兄のエルネスト十八歳、弟のアルバート十七歳の時に、ケンジントン宮殿でアルバートとヴィクトリアの二人は会った。

それからレオポルドの兄のエルネスト公爵も、当時そろそろ婚約する年齢になっていた。 レオポルドは、ブリュッセルの卓越した支配者だった。

彼は後にヨーロッパの重要人物となるヴィクトリアとアルバートの良き助言者であり、叔父として彼らに注意深く様々な助言をした。エルネスト・アルバート・ヴィクトリアの、ザクセン=コーブルク家の三人の若者達は四週間ベルギーに滞在した。

レオポルドは、甥達の将来のために、活気あるベルギーで大勢の人々と交流させるのが良いだろうと考えたのだった。

この年にはルイーズも、オステンドで彼らとしばしば会った。 そしてルイーズも、彼らとの交流を楽しんだ。彼女にとって彼らとの交流は、大変良い刺激になった。

 

 

 

レオポルドは、その思慮深さから特に弟のアルバートの方を可愛がっていた。 恩寵が彼ら夫婦の上に降り注いだ。

オステンドへのバカンスに出かけた時、レオポルドはいつになく、生き生きとした嬉しそうな様子だった。 この光景を眺めていたルイーズも、晴れやかな気持ちになった。

遅れてやって来た、普通の夫婦の姿であった。 その年の秋、ルイーズは再び妊娠した。そして彼女はその事を正直に夫に告白した。 「めったにない喜びです」。

ルイーズの妊娠を知ったレオポルドは、二人目の息子が生まれてくる事を心待ちにした。 その間レオポルドは、甥達に実に細やかな配慮をしていた。

レオポルドは、彼らにブリュッセルで最高の教育を受けさせた。

エルネストとアルバートは、歴史・数学・語学を学んだ。また軍事演習にも参加させた。 そして時には狩りや展覧会に連れて行くなど、彼らに様々な体験をさせた。

レオポルドとルイーズは、ディナーの時も喜んで彼らと同席した。 エルネストとアルバートは仲の良い兄弟だったが、アルバートの方は概して社交の場においては大人しかった。ルイーズが彼らと再び会ったのは、彼らは今度は、叔父によってオペラに招かれた時だった。

 

 

 

 

その晩ルイーズは日頃の骨の折れる仕事から解放され、音楽に聴き入っていた。ルイーズは、オペラの休憩時間の合間にデッサンをしていた。

この時彼女は、パリの書籍と雑誌も持って来ていた。 その雑誌は「二つの世界の芸術家達」というタイトルだった。 つまり彼女には、絵の才能があったのである。彼女は大変に豊かな感性を持っていた。

以前にルイーズの母マリアも、娘について「彼女は真の芸術家です」と言った事があった。またマリアは「彼女は自然をまさにそのまま写し取ってしまう」とも言っている。

一八三六年十二月の夕方ウィーンのヨハン・シュトラウスが、ブリュッセルの王宮のディナーとレセプションに招待された。

シュトラウスの演奏に魅了されたルイーズの表情には、生き生きとした笑みが浮かんでいた。レオポルドは今度生まれてくる子供も息子なら、更にベルギーの王権を強化してくれると息子の誕生を期待していた。

国王の願いは叶えられた。

一八三七年の三月二十七日、国王夫妻に二人目の息子フィリップが誕生した。フィリップ・ウジェーヌ・フェルナン・マリー・クレマン・ボードワン・レオポルド・ジョルジュ。

この子は「優しいリプシェ」というあだ名で呼ばれるようになった。

この息子は元気で手がかからず、ルイーズから受け継いだ、金髪と美しい両目を持っていた。 ルイーズの兄オルレアン公フェルディナンには、無頓着な青春期があった。 彼は一時期には、ファニー・レホ、または喜劇女優レオンティーヌらの女性達と交際していた。彼の父、フランス国王ルイ・フィリップは、そろそろ、この長男の結婚相手を探さなければと考え始めていた。

 

 

 

国王ルイ・フィリップは、彼の王子の後継者のために、高い血統の王女が欲しかった。そしてカトリックの。

最初の候補者は、十九歳の王女だった。 マリー・フォン・ヴュルテンベルク。

そして彼女は、ロシア皇帝ニコライ一世の姪であり、最も金持ちのドイツの君主の娘であるという、倍の利点を、オルレアン家に提供した。 しかし、ヴュルテンベルクの国王は、ドライに十分なフランスの進撃を撃退した。 その姉妹のカタリーナは、1807年に、ナポレオンの弟と結婚した。

ジェローム・ボナパルト。

彼は兄ナポレオンにより、ウェストファリアとロンバルディア王国の王となっていた。

この頃に、ヴュルテンベルクの家族は、フランスとの同盟にすでに耐えた。

そしてもはや彼らは二度とフランスとの同盟を、必要としていなかった。

こうして、ヴュルテンベルク側から、この縁談は、断られる事になった。

夜の間に、ルイーズは、兄フェルディナンのために、花嫁候補者の、何通かのリストを作成した。それぞれの相手との結婚の可能性の長所と不便を考えて、そして、それを決定した。そして何よりも、当時シャルトル公だった、フェルディナンのために、彼女自身がこれらの相手の誰かとの結婚を、望んでいたのだった。この最愛の兄弟のために。

この候補者達の中でも、特にオーストリア=テッシェン大公の娘の、大公女マリア・テレジア・イザベラとの結婚計画は、王妃マリア・アメリや1836年から外務大臣となっていた、ルイ・アドルフ・ティエールなども加わり、春から、フランス側により積極的に推し進められていた。ルイーズ自身も、彼女個人でこのオーストリアの大公女について、健康な女性かなど調査していた。

 

 

 

「ドイツのこの最も小さな王女です。

そして、私は、彼女により好感を持っている事を認めます、彼と結婚するために、とても美しいリッペまたはヴェルデックの王女。

そして大変健康にも恵まれた。

もしくは、とても多額の持参金などの利益を、我々にもたらしてくれるであろう、オーストリアの大公女マリア・テレジア・イザベラ」。

五月二十九日から六月十一日の間に、オルレアン公となっていたフェルディナンは、大公女とその父の、気持ちを掴む事ができたかに見えた。 しかしブルボン王朝が市民達により打倒され、オルレアン公ルイ・フィリップがフランス国王に即位し、「七月王政」を開始する、きっかけとなった、一八三〇年に起こった「七月革命」の敵対者達であった、オーストリアのメッテルニヒと皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の母ゾフィー大公妃が、この縁談に、干渉をしてくる事になった。

この「七月革命」の成功は、「ウィーン体制」下のヨーロッパ諸国に大きな影響を与える事とこれを契機に、ヨーロッパ各地で自由主義、民族主義の運動が起こったが、ベルギーが オランダから独立を獲得した他は、反動勢力に より、ことごとく鎮圧されていたからである。結局、彼らにより、この結婚話は、白紙に戻されてしまう事となった。

この大公女マリア・テレジアの拒絶は、特に彼らオルレアン王家に恥をかかせる事となった。更にこの破談から三ヵ月後に、このオーストリア=テッシェン大公女マリア・テレジア・イザベラは、最近男やもめになっていた、ナポリ=シチリア両王国の若い国王フェルナンド二世の結婚申し込みを、承諾してしまったのである。

 

 

 

 

しかし、王妃マリア・アメリの姉マリア・テレサは、オーストリア皇帝フランツ二世の皇妃となっており、(マリア・テレサの生んだ皇女達の、フランス皇妃マリー・ルイーズとブラジル皇妃レオポルディーネは、フランス王妃マリア・アメリの姪になる。 そしてこのフェルナンド二世は、フランス王妃マリア・アメリの甥であったため、よけいに彼らのこの結婚に対する、オルレアン王家の衝撃と屈辱感は、強かった。 痛烈なオーストリアの一撃。

そして、この娘マリア・テレジアは、ルイーズを軽蔑したのである!

これに対し、ルイーズは、誇りからこの侮辱に反応した。

「私は、彼にとって、幸せの美しい巡り合わせとこのオーストリアのちびの、もつれる魅力があるならば、良いと思います。」。

このように、フランス王国の国益の観点から、念入りに選ばれていた、長男のオルレアン公フェルディナンの花嫁探しだが、なかなか思うように事は運ばず、オルレアン王家の人々を、やきもきとさせた。

ついに彼らは、ヨーロッパのカトリック王女という条件を考慮して、大西洋側の国にまで花嫁候補者の規模を広げ、更に検討を続けた。しかし、オルレアン王家は、オーストリアの包囲によって、またしても有利な結婚が封鎖される可能性を、考慮しなければいけなかった。結局、これらの考慮の結果、ニ人の花嫁候補を、保つ事ができただけだった。 ブラジル皇帝ドン・ペドロ一世の娘の、ジャヌアリア・デ・ブラガンサ。

そして、スペイン王女。しかし、これらのいずれの縁談も、成立しないままで終わってしまった。結局、再びオルレアン家の目は、ドイツ王家の女性達の方に、向けられる事となった。ペリゴール伯爵シャルル・モーリス・ド・タレーランと彼の姪の、ディーノ公爵夫人の知人の女性の、ヘッセンのルイーゼが、候補者に挙がった。

 

 

 

タレーランは、フランス皇帝ナポレオンの下で外務大臣として、栄華を誇ったが、「七月革命」では、オルレアン公ルイ・フィリップのフランス国王即位の主唱者であり、王政開始後は、国王ルイ・フィリップの下で、顧問となっており、そして一八三〇年から一八三四年に、大使としてイギリスに派遣され、両国の本格的な関係改善を実現していた。 王妃ルイーズの思案は、レオポルドが勧める、アレクサンドリーナ・フォン・ザクセン=アルテンベルクか、もしくはヴィクトリア・フォン・コアリー、また、当時二十二歳だった、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世王妃でドイツ皇帝ヴィルヘルム一世母の、ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツの親戚に当たる、メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・ルートヴィヒの娘ヘレーネ・フォン・メクレンブルク。

彼女は洗練された公女に当てはまり、彼女もルイーズの考慮の内に入っていた、ドイツ方面の花嫁候補者の一人だった。

「ヘレーネは、上手に話す方法を知っています。非常に適切な王女。」こうしてルイーズが、ヘレーネを推した理由は、賢明なものだった。 彼女の優美さは、ルイーズの兄フェルディナンの結婚話に、度々加わってきた国王レオポルドの気持ちを、見事に掴んだからである。

 

 

 

こうして、オルレアン公は、「美しいヘレーネ」と呼んだ、ヘレーネと結婚する事になった。 オルレアン公は、フランス国内で、非常に人気があった。 彼の結婚発表は、大変な歓迎を受けた。そして結婚式は、フォンテーヌブロー宮殿で行われる事になった。

しかし、ヘレーネがプロテスタントであった事から、大司教がこの結婚に難色を示すという、一悶着が結婚前に起こった。

結局、夫の宗派のカトリック方式の式典と、妻の宗派のルーテル派の式典の、二つが行われる事になった。

一八三七年の五月三十日に、フォンテーヌブロー宮殿で、市民の式典と二つの宗教的な式典が行われた。しかし、祝祭への招待客である、ボワーニュ夫人とマイユ夫人は、特にこのオルレアン王子とドイツ公女との結婚に対する不安を、強調している。

密接な、ドイツ人に対するレッテル貼りであった。すでに長女のフランス王女のルイーズが、ザクセン=コーブルク家のレオポルドと結婚していたが、やはり、ドイツ人の女性がフランス王家の方に嫁いでくるとなると、またフランス宮廷の人々にとっては、別であり、受け入れ難いものを感じるらしかった。オルレアン公フェルディナンとヘレーネとの結婚一週間が過ぎた。

 

 

 

しかし、依然として彼女に対する、宮廷など、世間の様々な悪意ある声が、囁かれていた。

「公女はひどい、これらの情報。ドイツ人の足。貧弱な手。」 。

しかし、ジラルダン夫人は、彼女の年代記で、オルレアン公妃ヘレーネに対して、公平な見方を示している。

「私達は、オルレアン公夫妻が好きです。

彼女の表情の優美さ、顔の美しさ。ターンの際の、優雅な足のサイズの美しさ。」。

へレーネは、パリジェンヌとしての審査に晒された。そしてこのオルレアン公妃の上から、なかなか「degremaniser」(ドイツ人に対する差別的表現?)という言葉が、去らなかった。そして、これらのへレーネに対する完全な偽りを、決して受け入れなかった家族があった。やはり、フランス人の様々なヘレーネに対する、悪意ある見方は、元々のドイツ人に対する差別意識・偏見のようなものもあったのかもしれないが、将来のフランス王妃となるはずの彼女が、カトリックではなくプロテスタントであるという、宗教上の理由も、大きかったようである。

ルイーズも、義姉自身と彼女の困難な状況をよりよく理解して、そして、彼ら<義理の姉妹の間で本当の共感が、生まれていた。

 

 

 

一八三七年六月十日。

ヴェルサイユ宮殿専用の博物館の開設には、フランスの全ての栄光が込められていた。革命と帝国のそれらを含む事。

この開始は、この計画のために、一晩中寝ずに起きていたルイ・フィリップの、発案だった。 そしてこのヴェルサイユ宮殿専用の博物館開設時には、多くの訪問客や多くの記者達が訪れた。この博物館開設計画は、彼らの拍手を浴びる目新しさを備えていた。 ヴィクトル・ユーゴーは、二、三の力強い線を、その新聞社に残した。

「それは、君主の記念碑の、国定記念物を作る事になっていた。 それは、巨大な考えを、巨大な建物に置いた事である。

それは、現在において過去を装置した事である。一六八八年の反対側の一七八九年。国王と皇帝。 ルイ十四世とナポレオン。

一言で言えば。それは、ヴェルサイユと言う、この素晴らしい製本と言う、この素晴らしい本を持つということである。」。

 

 

 

これらの注目すべき日以後、ルイーズは、小さな社会を楽しむために、レオポルドとフランスでのその滞在を延長した。

ヌイイでの。その内に、レオポルド一世の方は、一足先にブリュッセルへと戻っていった。 そしてルイーズは、三ヶ月前に生まれた次男フィリップのニュースを、ラーケン宮殿にいる彼に、ほとんど毎日与えた。

そして、六月二十三日。 「フィリップは、有名なブロンドです。そして、彼の睫毛は白いです、そして、それは彼に、一つのとてもおかしい、アルビノの身のこなしをします。

しかし、それにも関わらず、私は彼が非常に美しいと思っています、そして、それは本当にそう思われます」。

一八三七年の十月十七日には、ルイーズの一番目の妹のマリーが、ヴュルテンベルク公アレクサンダー・フォン・ヴュルテンベルクと結婚した。

そして、一八四〇年の四月二十六日には、ルイーズの一番目の弟のヌムール公ルイが、ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルクと結婚した。 彼女の父は、夫レオポルドの兄のフェルディンナントであり、ルイーズにとっては義兄に当たり、娘のヴィクトリアの方は義理の姪に当たる。

そしてオルレアン家の女性達の、ルイーズとクレマンティーヌらは、それぞれ、ベルギー国王レオポルド、そしてこれも彼の兄フェルディナントの息子のアウグストと、いずれもザクセン=コーブルク家関連の男性と、結婚していた。

 

 

 

 

そしてマリーの夫ヴュルテンベルク公アレクサンダーの、同名の父は、名前の通り、ヴュルテンベルクの人間だが、母親のアントワネッテは、レオポルドの姉であり、ザクセン=コーブルク家の出身だった。

これで、オルレアン家とザクセン=コーブルク家の関係は、一層深まった。

このように、自分の家族達にも、慶事が次々と続き、そして、やっと夫レオポルドとも心が通い合い、三人の可愛い子供達にも恵まれ、平穏な日々を過ごしていたルイーズだが、数年の内に、愛する家族の悲報に、相次いで遭遇した。

わずか結婚二年後の一八三九年に、妹のマリーが、若くしてこの世を去ってしまった。 そしてそのわずか三年後には、

兄フェルディナンの突然の死に遭遇する。 一八四二年の七月十三日に、愛する兄の、オルレアン公フェルディナン・フィリップが、馬車の事故で死去してしまったのである。わずか五年の結婚生活で、まだ幼い息子フィリップ・ドルレアンと共に、突如残されてしまった未亡人の妻ヘレーネを初めとして、そして妹のルイーズ、そして長男を失ってしまった、フランス国王夫妻やオルレアン家の兄弟姉妹達は、マリーの死に続き、早過ぎる彼の、突然の死を悲しんだ。

 

 

 

それは、一八四三年春のレオポルド一世の主要な心配だった。

ルクセンブルクの行政区ヘの公式訪問。

これは、彼が観光旅行と政治を接合した、適切な派生物であるようだった。

そして、ルクセンブルクの分割という、オランダ人との間の、批准はベルギーに衝撃を与えた。これに対する、王室のカップルの気遣い。聖霊降臨祭のために、王室のカップルは、ルイーズがその活気を評価した、小さな都市ブイヨンに留まった。

「ブイヨンは、不思議で美しい渓谷やスモワ川の流れの近くに、位置しています。

高く生い茂った樹木の幕が、町を取り囲み、古の支配者ゴドフロワ・ド・ブイヨンの城を、飾っています。初めてここを訪れた時、本当にとても美しく、とても印象的でした。」そして更にルイーズは、こう書いている。

「レオピシャがこの夜の城を調べるために、変名でそれに伴う計画を思いついたために。人々は、当時流行していた、完全なロマンチシズムの中を泳ぎました。

森。中世の城。第一次十字軍の英雄。

そして夜の神秘。」。

 

 

 

彼女が夫のレオポルドと共に、夜のブイヨン城へのお忍びでの探索を計画していたため。そして、彼らは中世の城、第一次十字軍の英雄、神秘的な夜、というロマンチックな雰囲気に浸っていたのだろう。

ただし、実際にこの二人の夜のお遊びが、実行にまで移されたのかは、不明である。 そしてレオポルドはこの旅行で、更に現実的な計画を、考えていた。

1830年代の当時のベルギーは、大きな愛国的情熱を、必要としていた。

複雑な歴史と異なる特色のある地方、ワロン語とフラマン語など、言語や違う文化が共存しており、まだ独立してから新しい国ベルギーにとっては、国民達の意識を、ベルギー国民として一つに団結させるアイディンティティーとなりうる、象徴的な存在が、ぜひとも必要だったのである。

それを、レオポルドは第一次十字軍の指揮官であり、英雄である、ゴドフロワ・ド・ブイヨンに求める事にしたのである。

このため、国王レオポルドはブリュッセルに戻ると、スモワの彫刻家に、ロワイヤル広場に設置するためのゴドフロワ・ド・ブイヨンの騎馬像制作を依頼した。

そして、ベルギー国民にとって、このロワイヤル広場中央の、ゴドフロワ・ド・ブイヨン騎馬像は、ベルギー国民の勇気と信仰心を表わす、格好の象徴となっていった。

 

 

 

「その天候にもかかわらず、我々は、至る所で同じく情熱的で、心からの歓迎を発見しました。私はそれに、本当に強く触れました、そして、そのドアが常にそのルクセンブルクにある特定の感覚は、若干の増加を見つけます。それは、我々がこれらの勇敢な人々の一部を失った事に、かなり不満を抱いています。私も信じます。よく分割に耐えたこれらの貧しい人々の回復と嘆かわしい破滅の原因を防止する事ができました。」 ルイーズは、証明を与えた。

この公式訪問の時に。その信仰心の。

愛想のよさと住民にとっての本当の関心。それが、アルデンヌの地方の貧しい農民を、頻繁に訪ねている王妃の神話を、それ自体創り出したように、何も、そのためにより多くを必要としなかった。

寛大な王妃ヘの、そして、彼女の開かれた財布は、そうさせた。

そして、若干の感じのよい逸話は、この地方を瞬く間に駆け巡った。

そして、この場所では一八五〇年の王妃ルイーズの死は、まるで聖人の死であるかのように、本の中で発表された。

 

 

 

国王とやって来ている王妃が、アルデンヌに滞在した一日。

彼女は、聖職者の訪問を受けた。彼の話から、ある正直な農民の家族の事を知った。その一家の父親には、三人の息子と四人の女の子がいた。

そして彼の子供達の内に、民兵の夫婦がいた。しかし、彼らの生活は苦しく、年老いて病弱な父の支援があるだけだった。

そして、彼らは、満足な家具の買い替えも、なかなかできないままだった。

この彼ら夫婦の窮状を見かねた王妃ルイーズは、いくらかの金銭的支援をしてやる事にした。 すばらしい王妃は、こう言った。「私の資産は、あまりありません。

しかし、現在ここにある、大変な不幸のその信号。多くの不幸は、私の援助を求めています。しかし、私は、少し予備のお金を、ここに持っています。たぶん、彼にはそれで十分でしょう。」 。

王妃は500フランの、二つの小さなキャビネットを、彼らのために購入してやり、挨拶に来た教会の牧師を通じて、渡してやった王妃ルイーズは、その行動により、同情的で気前がよいという評判を、得た。

そして「最愛の王妃」という愛称も。

その結婚を開始する際に、それまで、ベルギー国民とほとんど会わなかったこの王妃は、君主制の慈悲の天使になった。

そしてこれは、レオポルド一世の、王族の厳しさと高慢さを、和らげる事となった。

 

 

 

 

 

1837年の6月には、レオポルドの姪のヴィクトリアが、ついにイギリス女王として即位した。ちなみに、この翌年の1838年の夏も、アルバートは、再びブリュッセルの叔父レオポルドの許に赴いている。

ついに自分の長年の計画を実行する機が熟したと 思ったレオポルドは、自分が長年温めてきた、 アルバートとヴィクトリアとの結婚計画を語って聞かせた。

しかし、アルバートは叔父からこの話を聞かされても、この頃の彼はむしろヴィクトリアとはあまり合わないと思っており、実際にもこの時の彼らの関係は、 後年のように、大変に愛し合っているカップルとは 言い難かった。ヴィクトリアの方は、1836年の5月に、初めてアルバートに会った時から、彼に一目惚れのような感じで、すぐに好意を抱いたのだが、アルバートが、ヴィクトリアが即位した時に、彼なりに内容に関しては様々な工夫はしたようだが、結果的に、素っ気ない無味乾燥な感じの祝辞を送ってしまったせいもあるのか、彼女との関係はぎくしゃくとするようになり、文通も途絶えてしまい、二人の関係は冷え込んでしまった。

事実、アルバートはこの時戴冠式にさえも招待される事はなかった。

 

 

 

しかし、レオポルドはこの縁談にあまり乗り気でない甥に向かって、こう説得した。

「利益のためには、自分の幸せを犠牲にするのも やむを得ない。それがおまえの努めだ。」。結局、ザクセン=コーブルク公国という、貧しい小国に生まれ、しかも次男とはあっては将来性もあまり期待できず、他に選択の余地がない事や、 アルバートの生来の彼の人の良さもあり、叔父の言う事に従う事にした。 しかし、男女関係の問題であるため、さすがになかなかレオポルドの思うように、事は進まなかった。

この年にアルバートがヴィクトリアに ロンドン訪問を申し出たが、これをヴィクトリアはあっさりと断ってしまった。

1839年にアルバートは、ロンドンから 二度目の招待を受けた。

しかし、アルバートはヴィクトリアが自分のロンドンへの訪問を、大層もったいぶり、さんざん待たせた事に感情を害され、もし最終的に婚約にこぎつける事が できなかったら、この話はきっぱりと断らせてもらうと 決意していた。こうしてアルバートは、この年の10月、 ロンドンへ向かった。

そして10月10日、ヴィクトリアと対面したアルバートだが、幸運な事に二人の間に 本当の愛が芽生え、1840年の2月10日に、 めでたく結婚する事になった。

そしてレオポルドの計画も、こうしてとうとう実現したのである。

 

 

 

一八三七年七月九日、ウィレム一世が再びベルギーに対して条約違反の侵攻を行なった。 これに対してヨーロッパ列強諸国のフランス・イギリス・プロイセン・ロシアも協議に参加した結果、ベルギーはベルギーのルクセンブルクと東部リンブルクを手放さなければならない見通しとなってしまった。

この間、王妃ルイーズも、懸命に夫レオポルドと父ルイ・フィリップとの間の連絡係の役目を務めた。レオポルドは必死の調整に走り回った。 国王は新たに自分が動かしやすい内閣を組閣した。

しかし、国王と凡庸で熱狂的な人々との間で口論が繰り返される事となった。

無能な彼らの眼には、何も事の本質が見えていなかったのである。

一方、国王が組閣した新内閣の方は「誠実」と呼ばれた。特にコアリー子爵は国王の信頼厚い、経済担当の大臣だった。

彼ら一族は、フランドル地方一体を支配していた。王妃ルイーズも、彼ら一族に尊敬と共感を抱いていた。特に彼らの誠実さ、若々しさに。ただ、彼らの欠点は、恩知らずな面がある所だった。

一八三九年に、ルイーズは一歳違いの妹マリーの早死についての悲しみを書き残している。「悲しみで心が引き裂かれそうです、彼女はまだとても若かったというのに。」 マリーは、まだ二十六歳だった。

彼女はそのパイプをふかす竜騎兵の水彩スケッチなど、絵に玄人はだしの腕前を見せている、姉のルイーズ同様、芸術的才能に恵まれており、初のフランスの女性彫刻家と認定されている程の、彫刻の才能に恵まれ、若くして亡くなったとはいえ、十分鑑賞に堪えうる、数々の作品を残している。

 

 

 

元々オルレアン家は、芸術や文学に理解が深く、また自ら絵画などを制作する事を好んでいた。 この頃、彼女は母国フランスの家族と夫の方のドイツの家族の間で葛藤していたのではないかと思われる。

ルイーズの夫レオポルドは、偏頭痛からか、しばしばいらいらする事があった。

この頃、二人の息子達の、四歳になるレオポルドと二歳になるフィリップが、喉と肝臓とを悪くしてしまった。

母親のルイーズはあれこれ良くなる方法を試し、最終的に子供達を外に連れ出すのが良いと判断し、二人を海岸に連れて行った。実際にこれが功を奏し、二人の体調は回復していた。翌年の一八四〇年、ルイーズにとって何にも勝る喜ばしい出来事があった。四回目の妊娠がわかったのである。 しかし、この娘の妊娠中、ルイーズは終始大変な身体の不調に悩まされた。

突然気絶してしまった事さえあった。

一八四〇年六月七日、ルイーズは、小さな王女を出産した。この娘には、シャルロットという名前が付けられた。

マリー・シャルロット・アメリ・オーギュスティーヌ・ヴィクトワール・クレマンティーヌ・レオポルディーヌ。

 

 

 

しかし、レオポルドは娘の誕生に失望を示した。 彼は王家の繁栄に繫がる息子を、必要としていたのである。

ルイーズは、何とかこの夫の反応に対する、怒りをこらえていた。

だが、幸いにも、このシャルロットは、手がかからない子供だった。

「シャルロットは、本当に手がかからない、良い子です。あれから少し、レオポルドと仲直りしました。」。

この頃レオポルドは長男のレオポルドと次男のフィリップを、一八四〇年の十二月二十四日に、それぞれブラバント公と、フランドル伯にしている。

この一八四〇年にレオポルドは、ロスチャイルド家から三百億フランの融資を受けた。 ベルギーは工業や産業に力を入れていたが、市場が不足していた。

一八四〇年の四月に、ルイ・フィリップの次男で、 ルイーズの一人目の弟のヌムール公ルイの結婚の時、国王レオポルドは、フランス・ベルギー間の関税同盟を提案するために、自らフランスにやって来た。

商業的な利益にとって良い、そして若干の、他の理由から。

ティエールは、ちょうど現在フランスで第二の省を創設していた。そして彼は、このベルギー国王レオポルドの面白い考えを、ルイ・フィリップとの間で仲介した。

しかし、このレオポルドの提案は、 初め、なかなか通らなかった。

 

 

 

商業について頑固なフランス人が不服を唱えたため。 レオポルドは、とりあえずこの提案の継続は、一旦取りやめた。

しかし、ベルギー人の失望を和らげ、ベルギーがヨーロッパでこれから持つ事になる、全ての重要性を証明した。

そして、ルイーズ。むしろ、ベルギー人よりも、よりベルギー人らしいくらいに、彼女もこの両国間での関税同盟締結を、誰よりも熱望していた。 そして、この喜ばしい取り引きの必要性が、いくつか再開される事を、待っていた。 「喜びはその省にあり、レオポルドは熱烈にそれを、欲しています。

両国間の間で、それが今年中に締結されないならば。 しかし私は、それがこの一年の間で成されると、その事を確信しています。そしてこの国の国境は変更され、我々はプロイセンの同盟国になります。」。

しかし、ルイーズの警告にも関わらず、国王レオポルドの、関税同盟締結に向けての、疲れを知らない努力は、引き続き、継続された。国王ルイ・フィリップとその大臣ギゾーとの欲望。関税同盟の計画は、産業のフランス人による魚雷と、フランス人とベルギー人で経済活力に対処する事を願っているイギリス人だった。

しかし、この喜びの取引は、後のサインだった。一八四五年十二月十三日。

六年間の、フランス王国とベルギー王国の二カ国の、産業財の関税同盟が、締結された。それは、全組合より野心的ではなかった。しかし、ないよりはましな。

そして、彼女の満足感を表明する、ルイーズ。

 

 

 

「ヴァン・プラートあるいは、レオポルドが非常に幸せである条約と共に、着きました。 それは、何かに署名させるビッグビジネスです。そしてそれは、二カ国の間の関係を維持します。一度壊れている。

人々は、それが簡単に更新される事を、願っていません。」。

一八四〇年の秋。オランダからの、出来事の突然の変化に、ベルギーは警報を受け取った。 王妃フリーデリーケ・ルイーゼ・ヴィルヘルミーネの死去後、オランダ国王ウィレム一世は、愛人だったベルギー貴族のドゥーレモント伯爵夫人アンリエットとの再婚のために、退位した。

そして、その息子のオラニエ公ウィレム二世は、オランダ・ベルギー間の問題を、清算したいという彼の突然の願望を説明しにやって来た。この彼の来訪に、ベルギー人達は、すぐに警戒心を抱いた。

そして彼はその可能性について、アクセスをしてきた。オラニエ公ウィレム二世は、非常にベルギーの王冠を奪還したいと、考えるようになっていた。

こういった不穏な噂にも関わらず、この年に開かれた、大晦日のパーティーは、すばらしかった。パーティーは、ブリュッセルで、十二月三十一日に催された。

このパーティーの招待客の一人であった、リーニュ公女は、ベルギーの支配者達の肖像について、こう言っている。

「王妃ルイーズは、非常に親切です。

そして国王も。しかし、王妃は、それ程美しくありません。しかし、彼(女)の顔は、非常に感じが良いです。青い目。美しいブロンドの髪の。ブルボン家の鼻。

全体的に平均的なサイズなのが、非常に優雅。国王。非常に大柄。

そして黒いかつら。黒い目。

小さいが、非常に刺し貫くような。

美しい軍隊式のターン。

彼は非常に視力が落ちているので、その手には眼鏡があった。」。

ルイーズの優雅さと魅力、国王レオポルドの存在感。ベルギーの王室カップルは、国王夫妻としての、少しの役割にも、不足していなかった。

 

 

 

一八四一年に、ベルギーは、オランダの脅威に晒される、精神病の中で生きていた。この頃ベルギーでは、こんな陰謀の話が囁かれていた。ラーケンまたは王室カップルの暗殺。国王夫妻には、護衛が付けられ、また子供達の回りの監視も、強化された。

ルイーズは、懸念と疑いの間で揺れ動いていた。 それは真面目に、これらの雑音を受け取るのか、それとも、純粋な脅迫のような彼ら国内のオラニエ派を無視する事の方が、必要なのか?

オラニエ派の危険は、常に居座っていた。 レオポルド一世。

そして彼は、フランスとの商業協定をする事ができなかった。 このため、国境でフランス軍の、デモンストレーションを受けた。

一八四一年十一月のベルギー人。

十分であるデモンストレーションは、ウィレム二世の計画を止めさせた。

しかし、それはベルギーの大臣達の、非常に素早い反応を引き起こした。

レオポルド一世とルイーズは、彼らの不手際に怒り狂った。

「鋭く彼らの愚かな行いにより、彼ら大臣を叱りつけました。」。

そして、彼らの不実のために。

そして、国王の唯一のイニシアティブが、全不毛の地が動くのを止めたと断言するルイーズ。

 

 

 

 

外国の政治と防御に関する、ベルギーのスタッフの専門技術の欠如としての状況、レオポルドはこれらの二つの領域に全力を尽くした。議会であるもの以外の、そして、大臣は国内方針で疲れを知らずにそれを思い出した。ベルギー王国の憲法の条件により、国王は統治したが、支配はしなかった。 政府の決定した男女共学。

カトリック自由主義者。

この十年間に。

そしてレオポルドは、ベルギー国内に、愛国的な必要性を構成した。

状況は、彼に仲裁の立場と操作の機会を提供した。オランダの危険は分かれた。

統一主義は、ばらばらに飛び散った。

国内でずっと大きな問題の一つとなっていた、教育問題、特にますます多くの矛盾している政府形成。世俗主義の自由な左とカトリックの権利の間の基本的な反目。

一八四二年の初等教育に関して国王は、妥協した。1833年のフランスの法律の影響を受けた。王妃ルイーズは、それを強要した。そして、公立学校のメンテナンスまたは兵卒の養子縁組が教育するあらゆる郡区は、そうした。この問題は、多くの国王の怒りと多くの片頭痛への、使用料を手に入れた。彼らの対立において。

ニつの大きい強さ。自由主義者の一つとカトリックの一つ。

 

 

 

一八四〇年から一八四一年が、むしろ湿っぽくて冷たかった今年の冬の、ブリュッセルの天国。子供たちを襲った風邪について心配する王妃ルイーズは、週の長さを待った。特にレオポルドがいくらかの指示をした時から、彼らの部屋で熱を制限する事。

そんな時に、ヴィクトリア女王の長女ヴィッキーの洗礼式への招待。

一八四一年二月十日に、それは大規模な式典として計画された。そしてイギリスのヴィクトリア女王夫妻の結婚記念日。

この氷の宮殿を逃れること。

そして親切な女王ヴィクトリアの招待により、ルイーズと共に、療養を兼ねてやって来たレオポルドとフィリップは回復した。

一八四一年の夏、ヴィクトリア女王の再びの招待により、ルイーズは二人の息子達を連れ、二週間の間、ロンドンに滞在した。

このように、王妃ルイーズが息子達を連れて、一時的に夫レオポルドの元から離れた原因には、夫レオポルドと息子達、特に長男レオポルドとの、緊張状態があった。

「レオポルドは、気難しい幼い批評家である、そして反抗的だ。」 。

 

 

 

レオポルドはこの頃からこの長男レオポルドについては、注意深く監督していかなければならないと考えていた。

そして彼は、この長男に対して、少しの甘さも持っていなかった。

一方、娘のシャルロットに対しては、七月十七日に、ラーケンで書かれたこの手紙が証明しているように、すでにこの子供には、夢中になっていた。

「シャルロットは小さな著しい方法で、着飾っている。彼女のその小さな麦わら帽子で。とてもまだ十三ヶ月の子供には、見えない。しかし、一人の可愛らしい子供の判定にはなった。」一八四一年十一月に。

ヴィクトリア女王に、二人目の子供が誕生した。 男の子。イギリス王位継承者エドワード。一八四二年の三月二十八日に、王妃ルイーズは、今から遺言を残しておく事を、思いついた。まだ若いルイーズだったが、三度目のシャルロット出産の時に、死ぬような思いをした事や、妹マリーの若過ぎる死などから、漠然と自分の死についても考えるようになり、この遺言作成に至ったようである。 まず、ルイーズは自分はカトリック式で埋葬される事を、希望すると書いた。

 

 

 

そして彼女は、神に、そして両親に対して感謝した。また彼女の夫と子供達にも。

それから、自分の各人に分配する遺品と相手の選別を、始めた。まず、最も高価で最も貴重であり、これまで彼女が持っていた結婚指輪は、夫のレオポルドに遺贈する事にした。 続いて、国王夫妻が失った、かつての幼いかわいそうな子供、ルイ・フィリップ。 彼女はこの亡くなった兄の絵を、息子のレオポルドに遺贈する事にした。 この絵には、彼の姿の他に、ナポリ湾の風景が表現されていた。絵は少し国王によってオイルが塗られ、現在はラーケンの彼の仕事場に、飾られていた。続いて次男のフィリップには、国王自らが作成した、コーブルクのローゼナウ城の図面の本が遺贈される事になった。ここはかつて、国王レオポルドの甥のエルネストとアルバートが、兄弟の教育係のフローシュッツと共に、暮らしていた場所だった。 そしてフィリップの名付け親の、ルイーズの兄のオルレアン公を描いたミニチュア。 ミラベル夫人による制作の。娘のシャルロットには、ルイーズの所有する宝石の大半が、遺贈される事になった。そして、その中には国王レオポルドがルイーズとの結婚式のために贈った、ダイヤモンドに囲まれた肖像画のメダルと、かつて前妻のシャーロットが所有していた、有名なエメラルドとトルコ石のブローチも、含まれていた。

そしてルイーズは、更にこの意図を付け加えた。「もし、今後自分の方が先に亡くなり、また国王が再婚するならば。彼女が彼の妻になる幸運な日に、その女性へと贈られる事を希望します。」。 母のマリア・アメリとその姉でオーストリア皇妃のマリア・テレサへの、手書きの文書。 そして彼女の両親、兄弟と姉妹、彼女の友人。宮廷の各女性達に、遺産を遺贈される事になった。

 

 

 

 

ルイーズは、誰も忘れていなかった。また、マレ夫人、また彼女の初めての侍女で、彼女の誕生から成人までずっと世話をしていた女官の、キルヒナー夫人など。 そしてこの中には、彼女の元英語教師や美容師までが含まれていた。 そしてこの七十二の、長いリストの終わりに、ルイーズはこう書いた。 「私はけして豪華な葬式は望みません。できるだけ費用をかけず、質素に埋葬してください。豪華な葬儀にかける分の無駄な費用は、その分を有効に貧しい人または使用人達に与えてあげて欲しいと思います。」。このように、やっと夫レオポルドとも心が通い合い、三人の可愛い子供達にも恵まれ、平穏な日々を過ごしていたルイーズに、パリから悲報が届いた。

1842年の7月13日に、愛する兄の、オルレアン公フェルディナン・フィリップが、馬車の事故で死去してしまったのである。

ルイーズを初め、長男を失ってしまった、フランス国王夫妻やオルレアン家の兄弟姉妹達は、早過ぎる彼の、突然の死を悲しんだ。