ベルギー王国の第一王子レオポルドは、母ルイーズ・マリーに似た、ブロンドの可愛らしい子供だった。
母親のルイーズ・マリーからは、「レオ」という愛称で呼ばれていた。
1840年の12月24日に、ブラバント公の爵位を与えられる。
父国王レオポルドの指摘によると、優れた所もあるが、神経質で怒りっぽかったという。また、夢想家で見栄っ張りで陰険な部分も、あったという。 母親のルイーズ・マリーは優しかったものの、父親のレオポルド一世は厳しい父であり、息子達に対する要求水準が高く、レオポルド達息子達は苦しんだ。 とはいえけしてレオポルドも、優秀な息子でなかった訳ではない。
更に、熱烈に母を愛していたレオポルドにとっては、息子達に対する要求水準が並外れて高い、厳しい父レオポルドとのかねてからの確執に加え、その内に父が母を顧みなくなり、やがてメイヤー夫人アルカディア・クラレットという愛人を作り、二十年間も寵愛する事になる。
そして更にジョルジュ・フレデリック・フォン・エピングホーベン、アーサー・フォン・エピングホーベンの、(レオポルド一世は、後にこの二人の息子達に、男爵の称号を与えている。)二人の子供達を産ませた事も、更に父に対する反発を、深めたのかもしれない。 また、妹シャルロットが並外れた優等生であり、父の一番のお気に入りの子供であった事にも、やっかみを感じたらしい。
数年後、レオポルドはベルギー軍の士官候補生になる。1850年に、38歳の若さで愛する母のルイーズ・マリーが死去。
これにより、より父レオポルドとの関係に、緊張感が生じたと思われる。
この時レオポルド15歳、フィリップ13歳、シャルロット10歳だった。 王妃ルイーズ死去時には、当時国王レオポルドと共に、ベルギー国内の非難を受け、一時ドイツに身を隠していたアルカディアだが、母ルイーズが死んだ翌年の1851年には、早くも父レオポルドは彼女のためにスタイフェンベルクの城を寄贈し、そこに定期的に通うようになった。これも王子レオポルドにとっては、許し難い事だったと思われる。
1853年の8月22日に、レオポルドは十八歳で、ハプスブルク大公・ハンガリー宮中伯のヨーゼフ・アントンの娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン家大公女の、マリー・ヘンリエッテと結婚する。
しかし、レオポルドは結婚当初から妻の彼女に対して粗暴な扱いをし、すぐに夫婦仲が悪くなってしまう。
元々は、乗馬が好きで機知にも富む、明るい女性だった彼女も、暗く塞ぎ込む、陰気な女性に変わってしまった。
そして、三人の娘達のルイーズ、ステファニー、クレマンティーヌにも、ほとんど関心を示さなかった。
また、息子が欲しかったレオポルドの方も、娘達にほとんど関心を持たなかったのである。王妃マリー・ヘンリエッテとの間に生まれた長男は、早世していた。
三人の王女達は、規律と忍耐を主要に教育された。 レオポルドは皇太子時代に、東洋旅行に出かけ、そこから後のコンゴの植民地化の計画を考えるようになったという。 1865年に、父王レオポルド一世が死去し、レオポルド二世として即位する。
彼の治世下では、ベルギー国内の都市整備、また数々の重要な社会法律が定められた。 労働者の小冊子の削除、一部の組合を作る権利、十二歳以下の子供達の工場労働の禁止、そして十六歳未満の子供達の夜間労働の禁止、女性労働の制限、老齢年金、炭鉱労働者保護法など。
このように、一連の保護者労働政策が実施されるようになったのは、1886年の3月から5月にかけ、不況による失業と機械化の進行に反対し、ワロン語地域の産業・鉱山地帯で相次いで労働者のストライキが発生し、その内に、リエージュやシャルルロワなどで放火や略奪、機械打ち壊し、発砲まで伴う大騒動に発展した事に端を発していた。レオポルド二世の治世二十一年後に発生した、困難であった。
軍隊を動員した政府による鎮圧は、多くの死傷者と投獄者を出す血なまぐさい結末となった。
その後、1884年に首相となっていた、「カトリック党」のオーギュスト・ベルナールの進言もあり、今回の事態の深刻さを理解した国王レオポルドと政府は、無産労働者階級の状況改善の必要性を認めるに至った。
また、父に続き、レオポルド二世はベルギー国内の、工業・経済の発展にも、力を注いだ。
だが彼の家庭生活には愛情は存在せず、妻にも、ほとんど関心を示さなかったレオポルドは、その内に、公然と愛人を持つようになる。また、フランスの有名バレリーナの、クレオ・ド・メロードや後年の王妃の死去後に、秘密結婚・貴賤結婚までをする事になる、その素性は娼婦だったとも言われている、悪名高い彼の愛人カロリーヌ・ドラクロワなどと、浮名を流した。
彼女との間には、二人の息子リュシアンとフィリップをもうけていた。
しかし、彼らには王位継承権は与えられない事になった。 だが、やがて彼自身が、相次いで娘達の方の結婚スキャンダル・恋愛事件に悩まされる事になるのである。
長女のルイーズの方は、初めザクセン=コーブルクのフィリップ皇太子と結婚していたが、彼は変態的な傾向のある人物で、これに耐えかねた彼女は夫と別居した。
あげく、ルイーズはプラーター公園で知り合った、オーストリア軍クロアチア連隊の士官ゲーザ・フォン・マッタチチュと駆け落ちをしてまう。そして、何と当時ハプスブルク皇太子妃になっていた妹ステファニーの約束手形を偽造し、多額の買い物をしていたのだった。 そして数年間の間、投獄される事になり、恋人マッタチチュの手助けにより、脱獄した。これに激怒したレオポルドは、この長女を勘当した。
結局、この後ルイーズは、彼女の恋人のマッタチチュと決闘騒ぎを起こし、負傷した夫のフィリップ皇太子と離婚し、数十年後に、極貧の中で死去する。
そして次女のステファニーの方も、姉ルイーズと同じく、結婚生活は不幸な結果となっていた。そもそも結婚当初から、皇帝フランツ・ヨーゼフ以外のエリーザベト皇妃やその娘のマリー・ヴァレリー、エリーザベトの姪のラリッシュ伯爵夫人など、(ルドルフに後の彼の心中相手のマリー・ヴェッツェラとの出会いを仲介したのも、彼女である。) ウィーン宮廷の人々は、彼女が特に美しくもなく、またその垢抜けない服装の好みが気に入らず、ステファニーに対しては冷淡だった。義妹になるマリー・ヴァレリーの「かたぶつの重石って所ね、ルドルフはどうしてこんな人に我慢できるのかしら。」またエリーザベトの腹心の女官でハンガリー貴族のフェシュテティチ伯爵夫人の、「彼女の立ち居振る舞いには、おかしな所があった。」そしてラリッシュ伯爵夫人の、やはり彼女の服装などを嘲る言葉など。
このように、ハプスブルク皇太子妃になったステファーに対して、ウィーン宮廷の女性達の辛辣な批評が続いた。
マリー・ヴァレリーは、基本的にほとんどエリーザベトがかまわなかった子供達の中で、唯一大変に可愛がり、何かと一緒に連れ歩き、念願の自分好みの娘に育て上げられたらしく、かなり母親の価値観に染まっていたと考えられ、またラリッシュ伯爵夫人も、エリーザベトに可愛がられていた姪であり、そしてフェシュテティチ伯爵夫人は、エリーザベトの腹心の女官であるため、ある意味、ステファニーに対してエリーザベトに倣った、このような反応は当然なのかもしれないが。 しかし、その他の宮廷人の、大半の人々のステファニーに対する辛辣な評価も、冷淡な視線も、これと大差なかった。
このように初めから困難な宮廷生活が予想される、彼女の新生活の始まりであった。 そして特に、この結婚に一番の不快感と抵抗感を示していたのは、ルドルフの母のエリーザベトだった。
エリーザベトは、ルドルフ達皇太子夫妻に一切口を出す事はなかった。
これは一見、かつて何かと自分達夫婦に干渉してくる、大公妃ゾフィーに苦しめられた自分の苦い経験から、息子達夫妻には、のびのびと自由にさせてやろうという、彼女の思いやりのように見えるが。
このように一切自分は二人の事に関知しないという事で、この結婚には依然として自分は断固反対であるという事を表したのだろう。 それは後に彼ら夫婦間の不和と亀裂が増していっても、何ら仲裁的な役割も果たそうともせず、相変わらず彼女があてのない旅行の日々に、明け暮れていた事からも明らかである。 特に、ステファニーの何から何まで気に入らなかった姑のエリーザベトは、事ある毎に、ステファニーの事を鈍重だとか、まるでフタコブラクダのようだとか、自作の詩の中で嘲笑していた。
また、宮廷の女官達も陰でステファニーの容姿とファッションをからかい、「不格好なフタコブラクダ」と、ステファニーの事を嘲笑っていた。大半の、うんざりするような高慢な上流意識に捉われたウィーンの宮廷人達に、ステファニーは、あまりにも早くに、伝統と格式あるハプスブルク家に入り過ぎた、成り上がり者という烙印を押されたのである。ハプスブルクの宮廷人は、新興国ベルギー王女のステファニーを、成り上がりと見なしていたのである。
それから、このエリーザベトのステファニーを辛辣に揶揄した例の詩の中で使われている、彼女の事を形容した「フタコブラクダ」とは、おそらくこの女官達の陰口から取ったのではないかと思われる。
しかし、本来なら、エリーザベトは皇妃として義母として、こういう口さがない女官達の陰口を、むしろ、たしなめる立場にあるはずだが。これでは、ステファニーに対する宮廷の女官達の陰口に同調していたと取られても、しかたないように思うのだが。
それに、いくらステファニーが嫌いだからいっても、これではエリーザベト自身が嫌っていた、ウィーン宮廷の人々と同じだと思うが。 これも、彼女の行動の矛盾点の一つである。 また元々、エリーザベトはステファニーとルドルフの結婚が決まった当初から、「嫌な予感がします、昔からベルギー王家はハプスブルク家に災いをもたらしてきたのですもの」などと言っており、以前から義妹のシャルロットの存在などからも、あまりベルギー王家に好感を持っていなかったのかもしれない。 また、さすがにはっきりと面と向かって彼女に悪口を言うことまではないものの、エリーザベトの自分に対する冷ややかな雰囲気は、ステファニーも、感じ取っていたようである。
また、唯一の頼みになるはずの夫の皇太子ルドルフとて、自分に辛く当たるエリーザベトを大変に崇拝しており、また彼も花嫁探しでベルギーを訪れ、彼女に求婚したとはいえ、本当にステファニーを愛して結婚した訳でもなく。 また初めは、彼女の初々しさが気に入っていたようだが、元々放蕩生活に慣れ、また自由主義思想だったルドルフは、政治的見解の違いなどからも、妻に退屈さや違和感を感じるようになり、遠ざかっていく。ステファニーは、日頃旅行で不在がちで皇妃しての役割を果たす事を嫌うエリーザベトの代わりに、オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇妃の役割を責任と喜びを持って代行していた。そして、これを見たエリーザベトは、これ幸いと、ステファニーに皇妃の役割代行を全て丸投げしてしまった。
その内にステファニーは夫のルドルフから、性病を移され、子供を産めない体になってしまう。事実上、彼らの夫婦生活は破綻していた。 そして、更にステファニーを不幸に陥れたのは、マイヤーリンクでのルドルフとマリー・ヴェッツェラの心中だった。 悲しみに暮れるステファニーは、姑のエリーザベトにも、息子ルドルフの死に関して厳しい非難を浴びせられた。
エリーザベトは、日頃の息子ルドルフに対する後ろめたさを、ルドルフの死はステファニーの責任だと、その気持ちを、このように彼女へと責任転嫁したのである。
また宮廷中にも冷たい雰囲気が漂い、相変わらず彼女の事を無視する姿勢を示した。
ステファニーは、このような状況の中、居たたまれない日々を過ごすようになった (ただし、同じように周囲から反対されたが想いを貫き、貴賤結婚をする事になった、フランツ・フェルディナントとゾフィー・ホテク皇太子夫妻だけは、同じようにステファニーとローニャイの、身分違いの恋を貫こうとする姿勢に共感し、ステファニーに好意的に接してくれたらしい。
当然、このように冷ややかで気詰まりなウィーン宮廷を厭い、ステファニーは気晴らしを求め、各国を旅行するようになっていく。
行く先々で、ヨーロッパの諸王家は、心中という形で夫を失った不幸なハプスブルク皇太子妃に対して、友好を表わしてくれた。
その内に、馴れ初めは不明だが、やがてステファニーは、運命の男性ハンガリー貴族のエルマー・ローニャイ公爵と出会い、真剣に結婚を考えるようになっていく。
しかし、不幸で屈辱的な形で夫を失ったステファニーに対して、父国王のレオポルドは同情する所か、このような形で夫に先立たれた娘の事を、ベルギー王家の恥さらしだと思っていた。当然、身分違いのローニャイとの結婚には、激しい怒りと不快感を表し、断固反対した。そして、更には彼女の王女としての身分剥奪まで、ちらつかせたのだった。しかし、ステファニーはルドルフとの娘のエリーザベトが反対しようが、父のレオポルドが反対しようが、おそらく、今度こそ、自分が女性として幸福になれる最後のチャンスだと思ったのだろう。この時ばかりは断固として、自分の意志を貫き通した。 そして、これを見かねたフランツ・ヨーゼフが、父娘の仲裁に入り、結局、不承不承レオポルドはステファニーの再婚を認めた。
しかし、ベルギー国王レオポルドの王女達の恋愛騒動は、これだけでは終わらなかった。あろう事か、三女のクレマンティーヌもまた、レオポルドの母方の親戚になる、フランス王家の年来の宿敵である、ボナパルト一族のナポレオン・ヴィクトール・ボナパルトと恋に落ち、彼と結婚したいと言い出したのである。 彼は、ナポレオンの弟ジェムローム・ボナパルトの息子であり、つまり、ナポレオンの甥で、ナポレオン三世のいとこに当たる。 当然、国際関係からも個人的心情からも、レオポルドは、このクレマンティーヌの結婚にも、猛反対した。
結局、どんな偶然か、三人の娘達は、誰一人として、父国王レオポルドの意向に添った結婚生活は、送らない事になった。
クレマンティーヌは、姉のステファニーと同じく、どんなに父に反対されようが、ヴィクトールとの結婚をあきらめようとはせず、とうとうレオポルドの生前は、彼女は未婚のままという事になった。
これには、自分の恋を貫き通し、遂には結婚を果たした、姉のステファニーの影響も、あったのかもしれない。
結局、クレマンティーヌは数年後の1909年に、父親が亡くなるのを待ち、次に王位を継いだ、いとこのアルベール一世から、結婚の許可を得て、ヴィクトールと結婚している。 このように、レオポルドは夫や父親としては、冷淡な所のある、多々問題がある人物だったが、君主としては先代国王の父レオポルド一世と同様優れており、数々のベルギー国内の産業発展・改革に尽くしたこのように建国初期から、レオポルド一世・レオポルド二世と、相次いで有能な国王に恵まれたベルギーは、彼らの治世下で大きな繁栄を迎えていた。
しかし、1876年にレオポルドが国際協会を設立した後、コンゴを「コンゴ自由国」という名目で植民地化した後、そこの住民に残虐な扱いと過酷な労働をさせた事が、国際的な非難を浴びるようになる。
しかし、これは人権上からの問題だけではなく、レオポルド個人が莫大なコンゴの富を所有する事による、各国の嫉妬や反感の要素も、含まれていたようである。
特に、積極的に痛烈な反コンゴ自由国キャンペーンを行なったのは、イギリスであった。とはいえ、この後の植民地化が、ベルギー王国自体の目的というより、主にレオポルド個人の野心によるものであった事は、否定できない。また、人権的観点から見ても、大変に問題のある行為であった事も、事実である。 なお、レオポルドが後に見られるように、シニカルな面があり、また妻子に冷たい人物となったのは、父レオポルドの仕打ちにより、愛する母のルイーズが苦しむのを見ていたレオポルドの繊細な心が傷つけられたからだという説もあるが、私から見ると元々彼は神経質で激しやすいなど、気性が激しく気難しい傾向の性格をしていたようであり、母親の不幸が更にこれらの傾向を、強めたのではないかという気がする。 やはり、レオポルドからは繊細さだけでなく、気性の激しさが読み取れる。
また、妻子に対する冷淡な仕打ち、特に妻を顧みず、数々の女性と浮名を流した事についても、これも私は両親の関係の影響というより、元々の彼の性格・価値観に起因する所が大きいのではないか?と思われる。彼が仮に、美しく魅力的な妻と恋愛結婚をしていたとしても、本来、ベルギー国王レオポルド二世はそれ程家庭的な人物には思えず、やはり、他の女性との浮気に走っていたのではないか?と考えられる。