その内に、シャルロットにメキシコから同行して来た、ジョアン・アルモンテ将軍・妻のセノーラ・アルモンテ夫妻が市長に連絡して、彼がシャルロットに会い、応対をした。
その後、シャルロットは駅に向かい、パリへと行った。しかし、この間にも、メキシコ皇帝夫妻にとって、悪い報せが続く事になる。
7月26日に、普墺戦争で再びオーストリアが、プロイセンに敗戦したのである。 大敗であった。
メキシコ皇后シャルロットのパリ到着が、
電信でチュイルリー宮殿に知らされた。
その頃、ナポレオン三世は胆嚢症の治療のために、ヴィシーの鉱泉地に、保養に出かけて戻ってきたばかりだった。
彼は病気を理由に、もう少し体調が持ち直すまで、一旦ベルギーに帰国してしばらく待っていて欲しいと、シャルロットに伝えた。しかし、シャルロットは、すでにベルギーの兄達が彼女を連れて帰ろうとした時も、拒否しており、このフランス皇帝の要請も拒否して、そのままパリで彼が会ってくれるまで待つ事にした。シャルロットはパリに行って、ナポレオン三世に会いに行く事を、兄達から止められていた。
その内に、メキシコの保守派のグティエレスの車が、グランドホテルにシャルロットを案内した。
そして、パリ当局者達も、メキシコ皇后を訪問した。
シャルロットは彼らに、ウージェニー皇后と会える事を、とても楽しみにしていると答えた。これは、シャルロットの本心だった。三年振りに、直接自分と会えば、ナポレオン三世に口添えしてくれるのではないかと、彼女との再会に、期待を抱いていたのである。しかし、彼女の来訪に対する、フランス宮廷の反応は、冷淡だった。これにショックを受けたシャルロットは、初めは怒り、しばらく休息した後に、ついに泣き出してしまった。8月10日の午後早くに、やっと皇后ウージェニーに対面を許された。他の訪問者達が去り、ようやくウージェニーと二人きりになる事ができた。
しかし、三年振りに会った彼女はよそよそしく、メキシコへのフランスの援助継続の話をする事を、断られてしまった。シャルロットは、失望を味わった。
翌日の午後、シャルロットのいるグランドホテルへ、フランス宮廷から派遣された、
皇帝の自動車が、彼女を迎えに来た。
しかし、フランス宮廷にとって、彼女は招かれざる客であった。グランドホテルでは、シャルロットの出発の準備が整った後、彼女は車でホテルを出発した。
国民は、このメキシコ皇后のフランス来訪に対して、大喝采で迎えた。
シャルロットは、この喝采には感謝したものの、 待ち望んでいた、皇后ウージェニーとの 再会も、期待外れな結果に終わり、
いらいらとした様子を隠せなかった。
歓迎の太鼓が連打される中、シャルロットを乗せた自動車は、サン・クルー公園を
横切り、サン・クルー宮殿へと向かった。
メキシコ皇后のフランス訪問を受けて、
塔に掲げられたメキシコの国旗に、
シャルロットはお辞儀した。
皇帝護衛兵と儀杖隊が、側に付き従っていた。そして階段の所に、宮廷人達が集合していた。
そして、メキシコ皇后のために、セレモニーが催されたが、完全に儀礼として、行なわれたものだった。
この場所には、当時10歳になるフランス
皇太子ルイ・ナポレオンの姿もあった。
やがて、皇后ウージェニーが、メキシコ皇后シャルロットを歓迎して現れた。
そして、彼女はシャルロットを、皇帝の個人サロンの場所へと導いた。
まず、皇帝と対面して早々に、シャルロットは、本題を切り出す事にした。
「陛下、私はやって来ました、私達の問題について適切にこの事態を収拾するために、
これまでとこれからの、私達のそれを。」
そして、シャルロットは皇帝ナポレオン三世に、用意してきた、これまでの夫マクシミリアンとの議論の内容、そして財源や、現在のメキシコ帝国の置かれている状況の報告、
バゼーヌ将軍に対する非難も含んだ、
40ページ程のメモを、手渡した。
「私は陛下に、真剣にお尋ねします、
今やバセーヌが、元帥と呼ばれています、
そしてメキシコ政府は、彼に今までより更に
多額の補助の賃金を払わなければならなくなっています、そしてフランスの遠征軍団にも。 」
そして彼女は、かつての約束通り、まだメキシコ帝国への軍事的・資金的援助を続けてくれる事を願う、自分の夫の恐ろしい状況を考えて欲しい、皇帝の正義と名誉にかけて、メキシコ帝国への援助を続けて欲しいと、真剣に訴えた。
しかし、実際にはナポレオン三世は、
もはや当時のメキシコ帝国の危機に、
なす術もない状態だった。
しかし、このシャルロットの訴えは、彼の心を深く動かした。 そして、自分を恥じる気持ちを起こさせた。
そして、 目に涙を浮べた。
とはいえ、こう言って、彼の姿勢はやはり変わらなかった。「私を頼りになされても、どうにもできない。 もう私がしてさしあげられる事は、ありません。」
ナポレオン三世は、シャルロットにこう言う事しかできなかった。
やがて晩餐の時間になり、トレイに乗せられたオレンジエードが運ばれてきた。
この場には、非常に気詰まりな雰囲気が、
漂っていた。 シャルロットはグラスを、いらいらとしながら見ていた。 皇后ウージェニーも、このような雰囲気の中、気まずそうな様子を見せていた。
ナポレオン三世は、興奮しているシャルロットを落ち着かせるため、彼女にこれから再びメキシコの状況について、大臣達と話し合うと受けあった。皇后ウージェニーは、
シャルロットに、食事までしていくようにと
勧めたが、彼女は断り、すぐにホテルに帰ると主張した。
ナポレオン三世の、シャルロットに言った事は、嘘だった。
大臣達はメキシコ皇后に対して、
表面上は恭しく接してはいたものの、
彼らの尊敬と同情を得る事に、
メキシコ帝国のために、勇敢に戦う姿勢を示している皇后は失敗していた。
しかし、それでも彼らは、彼らの政治的信条から、彼女の命令を支持しなければいけなかった。特に、軍事大臣のジャック=セザール・ランドンは、 シャルロットの主張の正当性を認めた。 しかし、それでもやはり、
彼女に何も約束を与える事は、できなかった。 もはや、メキシコのための資金は、
どこにも存在していなかった。
そして財務大臣は、シャルロットが用意してきた報告書の中にあった、メキシコの鉱物資源への関心を、明らかに残していた。
しかし、メキシコ皇帝マクシミリアンは、
自由主義派の支持を得る事ができなかった。彼らの多くは、依然としてファレスを支持し、共和国を望んでいた。メキシコ国内の、ファレスら自由主義派の勢力の方が、
強力過ぎた。大臣達は、現実的な決定を
下した。「これ以上、メキシコに関わる事は、
冒険である。」と。
メキシコ遠征のために、すでに十分な人員と金銭が、消費されていた。
そして、その代わりとして残された物は、
ほとんどなかった。
最終的な彼らの結論として、やはり、皇帝マクシミリアンは退位すべきであるという意見に、落ち着いた。
全ての釈明にも関わらず、彼らを説得しようとした、シャルロットの試みは、失敗した。
一時は彼らのメキシコへの関心を、
再び傾けさせる事はできたものの、
彼らの意見を、最終的に覆すまでには至らなかった。 その後彼女は、当時オーストリア大使 として、パリに赴任していた、パウル・メッテルニヒ侯爵の許も、
訪れてみた。しかし、何ら収穫は得られなかった。
ナポレオン三世は、再びシャルロットにメキシコの問題について、再度の協議の時に再び会う事を伝えた。皇后ウージェニーは、
日に日にシャルロットの興奮が増していくのを、恐れと驚きを持って眺めていた。
このままでは、最悪の事態を迎える可能性が、シャルロットを興奮状態に追いやっていた。 この時のシャルロットからは、自制心と これまで受けてきた、感情を抑制する教育が、すっかり失われていた。
フランス側の対応に対する、激しい怒りと
絶望が、彼女をこのような状態にさせていたのだった。財務大臣の答えに、彼女は怒り非難した。 このような、自分達に対する、
シャルロットの厳しい追及から逃れるため、
ウージェニーはわざとすすり泣いたり、
気絶した振りをしてみせたりした。
ついに、大臣のカストロが、
興奮の極みに達していたシャルロットを、
部屋の外へと連れ出した。
フランスの大臣達は、再びシャルロットが
訴えている次の要求について、協議する事になった。
現在、メキシコ帝国の財政は、絶望的な
状態である事、そして兵力にも不足している事、ファレスら自由主義派で共和国派達の勢力が、どんどん増加している事。
これらの状況から、メキシコに早急な経済的・軍事的支援を、フランス政府に求める。
シャルロットは内閣の大臣達と、次の会議の時に、再び会った。彼らの意見は、
全会一致で、再び、フランス軍の即時撤退を決定した。 シャルロットは、再び失望を
味わわされた。
シャルロットは、この後更に一週間パリに
滞在した。そして彼女はなおもフランスの
銀行家や、経済専門家に、メキシコの財政について相談をしたりした。 彼女はこの間、宮廷の晩餐会に招かれ、礼儀として出席した。8月20日、フランス皇帝ナポレオン三世が、 シャルロットの許を訪れた。
二人は別れの挨拶をし、皇帝はお辞儀を
した後、シャルロットの手にキスをすると、
黙って部屋から出て行った。
フランス皇帝との交渉も不首尾に終わり、
絶望を感じたシャルロットは、
ひとまず、かつて夫と過ごした、トリエステのミラマーレに戻る事にした。
一方、メキシコ皇后との別れを済ませたフランス皇帝ナポレオン三世は、妻のシャルロットを代理人として、自分の要求を伝えてきたマクシミリアンに対して、決定的な通告を、書面でした。
「私はひどく、ばつの悪い思いをした、
私はもうこれ以上、メキシコに新たに一兵
たりとも、一ターラーたりとも、送ってさしあげられない。ひとまず、1867年の1月1日までは、最後のフランス軍が留まる事で、
意見が一致している。」
これがフランス皇帝から、メキシコ皇帝に対して行なった、容赦のない、決定的な宣告だった。しかし、マクシミリアンは、これに従うしかなかった。
シャルロットがパリを立つ当日の1866年の8月22日に、彼女は夫に宛てて手紙を書いた。 しかし、すでに混乱したシャルロットの精神状態が、表われている。
「私の最も大切な宝物へ。
私はこれからミラノ、トリエステへと旅立ちます。私はあなたに証明しなければいけません、私が何も目的を達成する事ができなかった事を。彼自身は、私にとって悪魔です・・・・・・
彼は最初から最後まで、あなたの事を愛してなどいませんでした、彼があなたの事を好きだった訳がありません、彼はあなたの
関心を引いた蛇でした。
彼の涙は、その言葉と同じく、偽りでした。
現在、フランスとヨーロッパが注目しています。メキシコが豊かになる事を。
そして、私達はそうする事ができます・・・・・・
あなたは、そうする事ができます。
もうフランス人は信用できません、
しかしヨーロッパ中に、あなたの状況が明らかにされれば、援助資金はきっとやって
来ます。 」
支離滅裂な言葉が目立つ、この手紙からは、シャルロットの躁病の、最初の徴候が
目立つ。 パリに来てからの、シャルロットの様々な努力が、全て虚しい結果に終わっていた事が、彼女をこのような、混乱した精神状態にしていた。
ナポレオン三世は、気前のいい主人だった。サロン車の提供。レセプション、
部隊格子、吹奏楽団。
しかし、彼女はもうそれらに、喜びを感じる事ができなくなっていた。
それらの後で、もはやシャルロットは、
彼らフランス皇帝夫妻に、嫌悪感しか
感じなくなっていた。
イタリアでシャルロットは、住民達の心からの、大歓迎を受けた。イタリア市民達は、
かつての総督マクシミリアンの、
寛容な統治を、覚えていた。
しかし、それでもシャルロットはこの時、
完全に疲れ果てていた。
やがて、彼女は湖の側にある、
父親の別荘に着いた。
医者は、シャルロットに長期の休暇をとる事を勧めた。 シャルロットは、急いで遠くまで旅行を続けた。
彼女は、至る所で大歓迎を受けた。
ピエモンテ=サルディーニャ国王
ヴィットーリオ・エマヌエレ二世も、パドヴァまでシャルロットを訪れた。やがて、シャルロットはトリエステに到着した。ミラマーレ宮殿の中の、かつて夫と過ごしていた部屋の中を眺める、シャルロットの目には、
涙が溢れてきた。 楽しい祝祭、園亭に植えられていた多くの植物。 総督夫妻だった頃の、 マクシミリアンとの二年間の幸福な思い出が、 彼女の胸をよぎった。 シャルロットの侍医の、二人の医師達は、
休養を取り、心身を休ませる所か、
彼女の様子が悪化しているのを見て取り、
不安を募らせた。
ミラマーレを、マクシミリアンの弟のルートヴィヒ・ヴィクトール大公が、訪れた。母のゾフィー大公妃に、シャルロットからマクシミリアンの様子を聞いてくるように、 送られていたのだった。しかし、病状が悪化していたシャルロットは、彼にマクシミリアンの事について説明する事ができず、 彼に夫の事について話す事を、拒否してしまった。
その内に、シャルロットに、メキシコから緊急の電信が届いた。マクシミリアンの個人秘書の、ホセ・ルイス・ブラシオからだった。
メキシコの主要な湾口都市の、タンピコが、
ファレス軍によって、陥落してしまったのである。 バゼーヌが、現在拠点として戦っていた場所 だった。そして、ファレスの軍隊は、至る所で 進撃を続けていた。
このように、新たな混乱が、シャルロットを
襲った。 そのような中でも、彼女は何とかこの苦境を打開する方法を、考えなければならなかった。 その内に、彼女の中にある考えが浮んだ。 ローマ法王ピウス九世に、カトリック国となっている 、メキシコ帝国への介入・そして援助をしてもらう事である。
ブラシオは、皇帝マクシミリアンに、
ミラマーレでのシャルロットの様子とこれから彼女がローマへ旅立つ事を報告した。
しかし、ブラシオはこの旅行中に、
シャルロットが深い精神的混乱の様子を
示している事に、驚いていた。
9月16日、 ミラマーレとその周辺の住民に、メキシコ皇后シャルロットが、これから