ルイーズは、長年の間、夫レオポルドとの夫婦関係を、愛情溢れるものにしようと、努力していた。1842年の12月17日の、母への手紙にも、最近夫と一緒に散歩をして、満足だったと書いている。
しかし、夫のレオポルドは、相変わらず、前妻のシャーロットを失った悲しみや苦悩から、立ち直れないままだった。
従順で穏やかなルイーズは、やはり、依然として夫婦の様々な性格の違いなどもあり、夫レオポルドとの長年のこのような関係に疲れ果て、やがて夫との関係から、逃避するようになっていく。
この頃、イギリスのヴィクトリア女王は、ようやく叔父レオポルドのいるアルデンヌを、頻繁に訪れる事がなくなっていた。
レオポルドも、さすがにいつまで経っても 、自由気ままなこういう行動が収まらない、姪のこの行動に業を煮やしたのか、彼からの注意もあったようである。
1844年の1月、ルイーズは夫のレオポルド、シニョン子爵・モンタギュイエール子爵・キュスティーヌ伯爵達と共に、旅行をした。 ルイーズは、三人の子供達の誕生に、大変満足していた。
レオポルドとフィリップの二人の息子達は、ベルギーの王権の安定を、保証してくれるであろうし、また娘の小さな王女シャルロットは、愛らしい。
またシャルロットは、夫レオポルドの一番のお気に入りの子供でもあった。
ルイーズは、子供達に高い教育を受けさせたいと考えており、これには夫の国王レオポルドも、賛同していた。
ルイーズは、父のルイ・フィリップに、子供達の各教育についての権威者の紹介を、依頼した。レオポルド自身の子供達に対する印象としては、優秀な方だと言える、次男のフィリップに関しては、「忍耐力が無さ過ぎる。」と不満を洩らしている。
ルイーズは、夫のこのような息子達に対する、厳しい感じの姿勢に、警戒心を抱いた。
レオポルドがアルデンヌか、あるいはドイツのヴィースバーデンに姿を消した時に、ルイーズは息子達に励ましの手紙を書いている。しかし、相変わらずレオポルドの方は、息子達は、怠惰過ぎると断定した。
また、このようにも言っている。 「それは、恥ずかしい事である。」1844年の1月8日、レオポルドは長男についての懸念を、このように表わしている。「レオは、優れた点もあるが、神経質で怒りっぽい。」
レオポルドは、長男のこのような欠点に、不安を感じていたのかもしれない。
彼は、すでに長男のレオポルドが6歳の頃から、息子の気になる傾向に注目していた。 「気難しい幼い批評家である、そして反抗的だ。」 レオポルドはこの頃からこの長男については、注意深く監督していかなければならないと考えていた。
そして彼は、この長男に対して、少しの甘さも持っていなかった。
ルイーズは、夫と息子達の、緩衝地帯のような役割を果たしていた。ルイーズの教育方針として、なるべく子供達をよりよく理解しようとしていた形跡がある。 長男のレオポルドは、早い内から、父に対しては反発を抱き、母に対しては、熱烈過ぎる愛情を抱くようになった。
フィリップは、頑固な所もあるものの、兄妹達の中では、一番穏やかな性格だった。息子達の教育を巡っては、レオポルドとの意見の対立が起こり、なかなかルイーズの教育方針は、夫のレオポルドに理解してもらえず、彼の方針の方が優先される事になった。このような、息子達の教育を巡る、一連の夫との口論や、やはり、長年の間の、夫との埋められない性格等の相違点・そして依然として、レオポルドが前妻のシャーロットの存在に、強い愛着を抱き続けている事などから、ここ数年ルイーズは、憂愁を感じる事が、多くなっていた。
しかし、そんな彼女に、追い討ちをかけるような出来事が起こるのである。
1844年の9月に、夫のレオポルドがこの時期に知り合った、アルカディア・クラレットという18歳の美しい娘を、愛人にしてしまうのである。 アルカディア・クラレットは、ベルギー軍の軍人であり、 軍務を退いた後は、未亡人と孤児のための年金基金の会計係を務めていた、 シャルル・ジョゼフ・クラレットの娘だった。クラレット家は、ベルギー社交界にも出入りを許されている、ベルギーの名門貴族の家柄だった。レオポルドは、体裁を保つため、1845年の6月30日に、ベルギーの王室厩舎長の、フレデリック・メイヤーとアルカディアを結婚させた。
しかし、こうしてアルカディアがメイヤー夫人となっても、依然としてレオポルドとアルカディアの愛人関係は続いていた。
国王が、すっかりアルカディアに誘惑されてしまった様子は、次の彼の言葉からもわかる。「 アルカディアはふくよかだが、ルイーズはやせている、またルイーズが気づかいからイライラしやすかったのと同じくらい、アルカディアは陽気でのんきだ、そして食べる事が好きだ、食べる事、飲む事、着飾る事、音楽も好きだ。」
レオポルドは、アルカディアとの関係により、全ての重荷を忘れ、彼のうぬぼれと好色を満足させる事ができた。
彼は、アルカディアの若さと性的魅力に夢中だった。ルイーズも、かつてはよく笑い、生き生きとしていた。レオポルドは、心に掛かる様々な気がかりを忘れるため、アルデンヌのアルカディアのいる場所に、 通いつめた。 1845年の6月25日、ルイーズは夫レオポルドとの間に取れた、短い時間の中で、 今回のアルカディアとの一件について、 冷ややかにこう言った。
「人々が、あなたは良い気晴らしを見つけたようだと言っています」
レオポルドは、ルイーズのこのような反応に、 苛立った。 この夫が愛人を作った事に悩んだ、ルイーズの相談を受けた母の王妃マリア・アメリは、この娘の孤独の始まりに、 共感を示した。
フランス王家には珍しく、 フランス国王ルイ・フィリップ夫妻はオルレアン公夫妻時代から、堅実な、ブルジョワ的家庭を築いており、夫妻の夫婦仲も良く、ルイ・フィリップが愛人を作った事はなかった。
このため、ルイーズも母のマリア・アメリも、よけいにこのレオポルドの、愛人騒動にショックを受けたのかもしれない。
一方、レオポルドは義母のマリア・アメリが今回のこの夫婦不和と彼の愛人問題について、 本格的に口を出してくる事になると、解決が難しくなると見抜いた。
とはいえ、アルカディアの魅力に夢中になっていたレオポルドは、相変わらずアルデンヌに通いつめていた。
そのため、妻と約束した、2月17日のコンサートの事を、すっかり忘れてしまっていた。さすがに、これはまずいと思ったレオポルドは、ルイーズにこれ以上今回の事について、母親に相談するのは止めて欲しいと頼んだ。 そして、「今回のアルカディアとの事で君を不快な気持ちにさせてしまったのは、すまなかった。これまでの、多くの君の献身には感謝している。」とルイーズに謝罪した。」 ひとまず、これを受けてルイーズも、気持ちを静める事にした。
1845年、レオポルドは、今度は国内の問題の対応に、追われる事となった。
レオポルドは、国内の政治勢力の内、カトリック派に対して毅然とした姿勢を取ってはいたが、本質的には、彼も保守派だった。
しかし、1845年の6月から、内閣の自由主義派の、 反カトリック派の姿勢が、強くなってきた。レオポルドは、内閣のこの二つの勢力に 挟まれて、 困難な調整を迫られる事になった。レオポルドは、事態の解決を図るため、自由主義派の大臣だったシャルル・ロジェに、閣内の自由主義派を抑制してくれるように依頼した。当時のベルギー内閣には、カトリック派と自由主義派の大臣が混在していた。 しかし、ロジェは自由主義派を抑制する所か、 あくまで自分達自由主義派の意見を主張し、 国王の賛同なしに、議会を解散する権利を求めた。
これに、レオポルドは苛立ち、不快感を示した。 これまで、ベルギー国内は、オランダの支配に対抗するために、1828年から、カトリック派と自由主義派の間で、「統一同盟」が結成された。 貴族・農民・聖職者などを中心とするカトリック派は、 カトリック教会の教育権を根拠に、教育の自由と言論、出版や団体結成の自由を主張した。
一方、自由主義派は、中産階級のブルジョワ、 法律家、医師などの専門職階層の一部、 教師らなどから構成され、国会議員の直接選挙と内閣責任制と報道の自由を要求した。 彼らは、「統一同盟」結成以降、体制の打倒と、北部と南部の行政の分離を求めて団結した。このカトリック派と自由主義派の「統一同盟」のおかけで、レオポルドは調整者及び助言者としての権力行使という、ベルギー君主としての仕事が果たしやすくなった。 本来オランダの統治に対する戦いのために、結成されたカトリック派と自由主義派の「統一同盟」は、ベルギーの独立後も、しばらくは維持されていた。
この両派の間では、憲法や統治形態、 そして社会秩序についての合意は存在していたが、他方の思想や理念的領域においては対立し、また教育や軍隊組織のような社会的領域においても対立していた。
外国勢力からの圧力や、オランダからの危険が退けられるようになると、カトリック派と自由主義派の間の、教育問題を巡る政治的紛争が、主要問題として、再び浮上してきたのである。
シャルル・ロジェら閣内の自由主義派とカトリック派の対立が強まってきたのも、このような背景があった。
ベルギー国内の産業の目覚しい発展は、主にブルジョワを強化し続け、この社会階層出身の有権者で、主に構成されていた、「自由主義派」の勢力を強めていった。
このような内閣の雰囲気から、そろそろ、ティーユに、カトリック党の結成を意図していたレオポルドも、しばらくはその計画を、あきらめなければならなかった。
カトリック党というのは、これまでベルギー国内の間に、実質的に存在していたが、まだ正式な形で、政党としては結成されていなかった。1846年の春の、このような国内の政治的緊張が高まった、不安定な雰囲気を、ルイーズも感じ取り、心配を感じた。
なお、このように不安定な国内の状況ではあったが、当時はルイーズの三十四回目の誕生日の時期だった。
この頃、ほとんど妻ルイーズの事を顧みなくなっていたレオポルドだが、それでも彼女の誕生日の4月3日には、妻にいくつかの賛辞の言葉を送った。
「君には、純粋な心がある。」 、「君は私の持っている、最もすばらしい友人だ。」等。 「恋人」ではなくて、「友人」。
この言葉に、レオポルドの本心、および二人の関係が象徴されている。
この時、ルイーズは自分の不幸に、気がついていたのだろうか?
口さがない宮廷人、特に女官達の口から、ロワイヤル通りの近くに、美しいメイヤー夫人が、国王から豪華な邸宅を与えられている事が囁き交わされていた。
1846年の10月に、ルイーズの母マリア・アメリと、ルイーズの友人ルール伯爵夫人ドゥニーズ・ド・ルストが、 フランスからベルギーを訪れる予定を立てていた。
おそらく、これはルイーズの懇願によるものだと思われる。彼女達は、レオポルドとの夫婦関係に悩むルイーズに、慰めと励ましを与えるために、フランスからベルギーへの旅行を計画したのだろう。
このように、夫との事で憂愁に沈んでいたルイーズだが、1846年の8月9日に、喜びの記述をしている。
この日は、レオポルドとルイーズ国王夫妻の、十四回目の結婚記念日だった。
「幸運な事に、昨晩の七時に、レオポルドが帰ってきてくれました、 彼は馴染んだイギリスのクレアモントから戻ってくるのが、名残惜しかったようでしたが、でも、この日を私と過ごすために戻って来てくれた事は、私にとって大切な事です。更にその上、彼はトルコ石の魅力的なブレスレットとネックレスを、私のために買ってきてくれました。
彼のこの気持ちとこの思い出は、私に喜びを与えてくれるでしょう。私の最愛の国王の優しさにより、私の中では、まだ感動が続いています。」
しかし、純真なルイーズは、レオポルドが彼女に見せたこの優しさも、表面的なものでしかない事に、まだ気づいていなかった。
今回のイタリア・スイスの長い旅行にも、彼は妻のルイーズを伴ってはいかなかった。
この時レオポルドは、閣内のカトリック派と自由主義派の紛糾からは距離を置き,事態を静観するように なっていた。
この間、自由主義派の動きは、激しくなる一方だった。この間に、ロジェらの自由主義派は、着々と将来の選挙、そしてそれに伴う選挙活動も 視野に入れて、自分達の政党結成の準備を進めていたのである。
そして、ついに1846年の8月下旬、閣内の自由主義派により 構成された強固な組織の「自由党」が結成された。
彼らは、教育の国や教会からの解放や選挙の際の 納税額を下げる事などを目的に掲げた。ベルギー国内で台頭してきていた、都市部のブルジョワの勢力を表わしていた。これに対して国王レオポルドは、国内でこのような 大きな政治的出来事が発生したおかげで、 自分の色恋沙汰からの、国民達の注目を逸らせると、これを歓迎した。なお、レオポルドがこの時結成を計画していた、カトリック党だが、当時の国内のカトリック派は、民主派、保守派から教皇至上主義派に至る、様々なグループに分裂しており、実際に結成されたのは、三十二年後の、1884年の事だった。
また、1852年の選挙で自由党が議席を減らすと、国王レオポルドは、中道左派のド・ブルーケル内閣や、中道右派のピーテル・デ・デッケル内閣を組織させ、かつての「統一同盟」路線を復活させようとしたが、いずれの政権も短命に終わっている。
1846年の10月の終わり、フランスのサン=クルーで、久々にルイーズは、家族のオルレアン家の女性達と話す事ができた。
1847年の2月、「自由党」を結成した、 シャルル・ロジェは、引き続き、選挙のための議会解散を求めた。
国王レオポルドは、これを認めた。
国王夫妻の長男の王子レオポルドは、 相変わらず神経質で精神的に不安定な傾向があり、レオポルドはその不満と懸念を、妻ルイーズへの手紙の中で表明していた。
1847年に行なわれた選挙により、「自由党」は大勝し、絶対多数の議席を獲得した。このように、当時のベルギー国内に政治や経済などの、様々な諸問題が発生していたせいもあり、国王はこの年の五月に保養地のヴィースバーデンからルイーズへの手紙の中で、体調の不調を書いている。
当時の政治的混乱から、ベルギーでは、特に1840年半ば頃のフランドル地方では、経済的な困難が発生していた。
それまでの伝統的なリネンの手工業が、繊維工場と競争を余儀なくされるようになっていったためである。また、この頃のベルギー全土は、コレラやチフスなどの疫病の流行、不作や飢饉などの災厄にも見舞われ、このため土地を捨てる移民が出現する兆候もあった。レオポルドは、国内のこの数々の困難について、「煮えたぎるベルギーの大釜の蓋は、折られてしまった」と嘆いた。
また、レオポルドは巨額の資金を投資し、グアテマラを植民地化しようとしたが、失敗に終わっていた。
その頃、ルイーズも、母親のマリア・アメリから、現在のフランスの王政が、悲劇的な状態だという手紙を受け取っていた。
1847年、当時のフランス政府に対する国民達の不満が高まっていた中、閣僚達がその対応を誤ったため、王政に対する国民の信頼は、失墜していたのである。
これに対して、野党議員や市民の改革派達が、 特に反発を示し、納税額が200フラン以上の者しか、投票できない現在の選挙制度の改善を要求した。
しかし、野党議員達は公然とした反政府運動をする事は抑えられていたため、「宴会」に名を借りて市民達を集め、この改革運動の高まりを図った。 この動きは、やがてパリのみならず、フランスの各地方都市に波及するまでの勢いになっていった。
しかし、当時70歳という老齢であった事もあり、これらの動きに対して国王ルイ・フィリップは、弾圧する方法を取った。
1847年の7月には、首相のギゾーが、各地での、いわゆる「改革宴会」を禁止する命令を出す事を計画していた。
そして野党が提出した「選挙法改正案」が、内閣によって否決された。
これらのフランス国内での騒動の拡大を、国王レオポルドと、王妃ルイーズは、憂慮していた。今後のフランス王政の行方次第では、ベルギーにも困難が及ぶ可能性があるからである。フランスの事態を注視していたレオポルドは、1847年の12月に、甥のザクセン=コーブルク公爵のエルネスト二世に宛てた手紙の中で、フランスで起こっている事態について、こう書いている。
「私の義父は、やがてかつてのシャルル10世のようになるだろう。そして今回の災難は、必ずフランスに回復不可能な程に降りかかるだろう、そしてこの余波はドイツの方にも、影響するだろう。」
シャルル10世は、ルイ16世の弟で「7月革命」によって退位し、イギリスに亡命する事になった、 ブルボン王朝最後の国王である。実際に、レオポルドが予見した通り、このフランスでの一連の騒動は、翌年の1848年の「2月革命」に繋がり、フランス国王ルイ・フィリップの退位へと発展していく。
そしてまた、このフランスでの動きは、オーストリアやドイツなどの、西ヨーロッパ諸国にも大きな影響を与え、様々な政治的変動を生み出す事になった。
1848年の2月に、市庁舎を占拠した群集が、チュイルリー宮殿に進撃する直前の、1847年の12月に、 ルイーズの叔母の、マダム・アデライードが死去した。
1848年の1月にパリで行なわれた、王妃ルイーズの叔母の葬儀に、ベルギー王家の人々は出席した。
この頃、ベルギーには、フランスから亡命してきた、カール・マルクスにより、共産主義者同盟のベルギー班が設立されていた。 マルクスは、1845年にフランスからベルギーへの亡命を希望する請願を、ベルギー政府に出していた。
ベルギーへの移住を許可された彼は、ブリュッセルで1846年には、フリードリヒ・エンゲルスとの共著『ドイツ・イデオロギー』を執筆し、1847年には、プルードンの『貧困の哲学』批判を目的にした『哲学の貧困』を執筆した。 そして1847年の春には、マルクスとエンゲルスは「共産主義者同盟」に加わり、ロンドンでのこの同盟の第二回大会に参加して重要な役割を果たし、またこの大会の依頼に応じ、有名な「共産党宣言」を書いていた。そしてマルクスにより、1847年の8月の初めに、共産主義者同盟のブリュッセル班と地区が設立された。
マルクスはそこの班長になり、また地区指導部、地区委員会に選出された。1847年8月末には、彼はエンゲルスと共に在ブリュッセル・ドイツ人労働者協会を設立した。これは共産主義者同盟地域班の影響下にある合法組織で、やがて百人の会員を持つまでになった。
レオポルドは、 1848年の2月25日に、ロジェ大臣に対して、フランス各地での動きが、ベルギー国内の民衆にも、影響を与える事がないか、注意するようにと言っている。
レオポルドとルイーズは、フランスでの騒動の拡大を感じさせるばかりの報せの連続に、警戒をしていた。
すでに去年の7月から、体制に反抗するフランス国民の勢いは激しくなるばかりであり、フランス王政が急速な勢いで崩壊に向かう予兆が表われ始めていた。
ギゾーにより、「宴会」は禁止されたものの、これに逆らう国民達が相次ぎ、パリにバリケードまで築いて政府の軍隊に対抗するまでになった。 そして議会に押しかけ、警備隊と衝突するまでになっていた。
1848年の2月23日には、雨天の中でもデモが続行され、ルイ・フィリップがギゾーを解任してこの事態の収拾を図ろうとしたが、学生や労働者を含む群集は、静まる事がなかった。この日には銃撃が始まり、 マルメロ大通りで流血の事態が発生していたのだった。 この頃、市民達の武装蜂起にまで、問題が進展していたのである。
24日には、市庁舎を占拠した群集が、チュイルリー宮殿に向かって進撃した。 宮殿に侵入した群衆は、略奪・放火などを行なった。 暴動が起こり、チュイルリー宮殿に国民達が侵入してくる前に、国王ルイ・フィリップは急いで退位し、 オルレアン一族は、宮殿から脱出していた。 国王一家が去った後、群集は国王の玉座を運び出し、燃やした。 そしてこの後、共和制が宣言されたのである。 有名な「2月革命」である。
この二日後の2月26日には、レオポルドは姪のヴィクトリアに対して、こう訴えた。
「大変な苦悩を感じている。」
そしてそれは、ルイーズも同様だった。
「この激しい絶望を、直視しなければいけません。」 彼女は、今回の災難のあまりの規模の大きさに、動揺していた。
「何という雷の一撃だろう!!」・「何という破局だろう!!」・「何という比較しようのない不幸だろう!!」。「私達が経験した、このひどい3日間の間、私は自分が二十回死んだのだと信じられるくらいでした。」
レオポルドも、ルイーズも、フランス国王ルイ・フィリップ退位という、最悪の結末に呆然とし、打ちのめされていた。
これまで、フランス王国とベルギー王国は、経済的に緊密な繋がりを持っており、ベルギーが今回のフランスの政治不安・大政変の影響を受けて、共倒れになる可能性もあるからである。また、ルイーズにとっては今回の事は、一家離散、そして実家を失ったにも等しい不幸であった。
このように、自分と家族の今後を案じていたルイーズだったが、ようやく、3月4日に、彼女が待ち望んでいた小さな封筒が届いた。 「ルイーズへ」 それは、マリア・アメリからの、短い手紙だった。
「ニューヘイブン、1848年3月3日、3時30分、私の愛しい天使そして私の心、これから後であなたに詳細を伝えようと思う、9日間の苦しみの後、私はあなたの尊敬すべき不幸なお父様と共に、ここに到着しました。
私があなたに優しくキスをするように、神は私達と同様のこの不幸から、きっとあなたを守ってくださるでしょう。」
ルイーズは、3月初旬に届いた、この母親からの手紙を読み、家族が遥かアメリカにまで亡命を余儀なくされた事に、改めて衝撃と苦悩を感じた。<そして苦悩に呻いた。<「私はそれに耐えます!!私がその事について考える時、私の心は屈服します・・・・・・」
ルイーズが、一家を襲った、このように非情な運命に苦悩していた頃、国王一家は、遥かアメリカまでを彷徨っていたので ある。 ルイ・フィリップ一行が、アメリカの方までを彷徨っていたのは、このような経緯だった。2月24日、暴徒と化した群集達が チュイルリー宮殿に進入する前に、 何とか宮殿から脱出したルイ・フィリップは軍服を脱ぎ、王妃マリア・アメリも質素な黒いドレープのある、ローブの服に着替えていた。
そしてコンコルド広場を横切り、高速の軽自動車に乗り込み、港を目指し、そこからイギリス行きの船に乗る事になった。
意気消沈していたルイ・フィリップは、こう繰り返すのを、止める事ができなかった。
「シャルル10世より悪い、シャルル10世の時より倍も悪い。」
一行を乗せた車は、まさに光のような速さで、ヴェルサイユ宮殿を瞬く間に通り過ぎ、進んでいった。
だが、途中で国王は、ある重大な事に気付き、恐慌状態に陥った。机の中に保管してあった、合計25000フランの20フラン金貨を、亡命用の旅費として 運び出すのを、忘れてきてしまったからである。
その中には、ベルリン型自動車二台を借りるための、1200フランも、含まれていた。人々の注意を引かないために、車を二台に分ける必要があったからである。
とにかく、何とか港に辿りついた一行だが、誤ってアメリカ行きの船に乗ってしまったのだった。アメリカのニューヘイブンに来てしまった事に気付き、家族と共に心労の続く、苦しい長旅に疲れきり、困り果てたルイ・フィリップは、ヴィクトリア女王に宛てて手紙を出した。それをヴィクトリア女王に届け、取り次ぎ、宿泊場所を提供してくれる交渉を、ヌイイ伯爵に任せた。
ヌイイ伯爵は、切々と、どうかフランス国王一家が宿泊するための場所を、提供して欲しいと女王に訴えた。当時、再度の妊娠中であり、機嫌が悪かったヴィクトリア女王だが、それでも、首相のパーマストンに、悲運のフランス国王一家に同情の気持ちを持って、丁重な待遇をするように、申しつけた。最終的に、亡命中のルイ・フィリップ一家が身を落ち着ける場所として、クレアモントが提供された。クレアモントが、一家の居住場所に決まった事に、ルイーズは安心し、喜んだ。 「家族のために居住する場所を与えてくれたこの特別な計らいのために、話し合ってくれた国王の一人がレオポルドでした。」