少女時代のシャルロット(フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター)
少女時代のシャルロット(フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター)
ベルギー王女シャルロット(フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター)
ベルギー王女シャルロット(フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター)
ベルギー王女シャルロット(ニケーズ・デ・ケイセル、1857年)、アントワープ市庁舎、アントワープ、ベルギー
ベルギー王女シャルロット(ニケーズ・デ・ケイセル、1857年)、アントワープ市庁舎、アントワープ、ベルギー
オーストリア大公マクシミリアン・フェルディナント・ヨーゼフ
オーストリア大公マクシミリアン・フェルディナント・ヨーゼフ
メキシコ皇帝マクシミリアン一世(1864年ヴィンターハルター)
メキシコ皇帝マクシミリアン一世(1864年ヴィンターハルター)
メキシコ皇后カルロタ(1864年ヴィンターハルター)
メキシコ皇后カルロタ(1864年ヴィンターハルター)
ミラマーレ宮殿写真
ミラマーレ宮殿
フランス皇帝ナポレオン三世
フランス皇帝ナポレオン三世
フランス皇后ウージェニー・ド・モンティホ
フランス皇后ウージェニー・ド・モンティホ
チェーザレ・デッ・ラクロワ「マクシミリアンのメキシコ出発」
チェーザレ・デッ・ラクロワ「マクシミリアンのメキシコ出発」
チャプルテペク宮殿写真
チャプルテペク宮殿

マリー・シャルロット・アメリ・オーギュスティーヌ・ヴィクトリア・クレマンティーヌ・レオポルディネ

1840年―.1927

彼女の名前の表記についてですが、日本ではベルギー王女というより、ハプスブルク家関係者という視点で取り上げられる事が多いため、ドイツ語表記の「シャルロッテ」になっている事が多いようですが。

しかし私はハプスブルク家関係者としてより、ベルギー王女として取り上げているため、当サイトでは、彼女の名前に関しては、ベルギー表記の「シャルロット」を使わせてもらいます。同様の理由で、彼女の姪でオーストリア皇太子妃だったシュテファニーについても、当サイトでは「ステファニー」という表記を使わせてもらいます。

 

シャルロットは、レオポルド一世の三人目の子供として、1840年6月7日に誕生する。

 母ルイーズの日記によると、シャルロットは大変に早熟な子供で、 早くから読み書きができたという。そして、性格も父レオポルドにそっくりだったという。

そしてシャルロットは、大変な才女で四ヶ国語に堪能で、そして音楽や絵画などにも才能を示した。

このため、性格が似ている事などもあり、父のレオポルドからは溺愛されていた。

確かに、シャルロットは穏やかだった母のルイーズよりも、

その理知的で意志が強い性格といい、 その野心といい、容姿といい、父レオポルドの方に似ていた。

シャルロットが10歳の時に、

母の王妃ルイーズが死去。

母ルイーズを亡くしたシャルロットにとって、

父レオポルドは絶対の存在だった。

レオポルドも、大変にシャルロットを可愛がった。

しかし、決して彼は甘い父親という訳ではなかったようである。

おそらく、彼の要求水準にこの娘が十分応えられる 存在であるという事がわかったからだろう。

レオポルドは、シャルロットの教育には、彼女の母ルイーズと親しかった、ルール伯爵夫人ドゥニーズ・ド・ルストに行わせた。

彼女は、宗教やその他の事についてシャルロットに教えた。

伯爵夫人はシャルロットに関する報告の中で、若い王女は特に宗教と道徳を大切に感じているようだ。と書いている。

シャルロットは、プルタークや他の歴史著作など、読書が大好きだった。

しかし、さしもの優等生のシャルロットといえど、 厳しい勉強に、重圧感を感じる事もあったようだ。

ローレンス・ヴァン・イパーセルは、シャルロットについて、その後の彼女の行動からも窺える、いくつかの特徴的で重要な点を発見している。

「誇り高い、威厳がある、近寄りがたい、寛大、 知性的、積極的、大きな社会的意識を持っている、そしてヒューマニズム的考え方から、社会に貢献できる大きな仕事をやり遂げたいと思っている。」

 

 

 

 

 

 

 

1856年の3月1日、

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の弟で自由主義者として知られており、当時海軍提督だったオーストリア大公マクシミリアン・フェルディナント が、ベルギーを訪れた。

彼は最初に、フランドル、トゥルネー、 それにガンとアントウェルペンなどの、いくつかのフランドル地方の都市を訪れていた。

当時16歳だったシャルロットは、 マクシミリアンに初めて会い、 この魅力的で知的な年上の青年に、 すぐに魅力を感じた。

24歳のマクシミリアンの方も、

ベルギー王女シャルロットと初めて出会った時に 彼女にすぐに夢中になった様子を、 弟のカール・ルートヴィヒ大公への 手紙の中で、書いている。

「彼女は小柄だ、彼女はブルネットで 私はブロンドだ、それも、とても良いと思う、そして彼女は非常に聡明だ。」

こうして、恋に落ちた二人に、

すぐに結婚の話が持ち上がった。

 

レオポルド一世とマクシミリアンとの間で、シャルロットの持参金について交渉が一時難航したが、レオポルドは新興国のベルギーが名門ハプスブルク家と婚姻関係になる事自体には、悪い気はしておらず、結局何とか交渉は成立した。

 

 

 

 

 

1856年の12月23日に、ベルギーのラーケン王宮で、マクシミリアンとシャルロットは結婚式を挙げた。

翌年の1月6日には、二人の結婚を祝い、

盛大な舞踏会が催された。

この時のシャルロットの衣装は、緑色に花の付いた、薄地のモスリンのドレスだった。

トリエステにミラマーレ宮殿を、マクシミリアンは建設させた。

当時シャルロットは義母になる、ゾフィー大公妃、義兄になるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世、美貌の皇妃として有名な、義姉になるエリーザベトと対面した。

大公妃は、礼儀正しく聡明なシャルロットが気に入り、フランツ・ヨーゼフも友好的に接した。

しかし、シャルロットとエリーザベト達は、 お互いに個性と自負心が強い事もあってか、 また、ゾフィー大公妃がシャルロットを何かとほめた事などもあり、あまり打ち解けた関係にはならなかった。二人の関係を表わす象徴的なエピソードして、こんな話がある。

 

 

 

 

ある時、エリーザベトの大型犬の愛犬シャドーが、シャルロットの愛犬の小型犬を噛み殺してしまったが、エリーザベトは謝罪もせず、「私、小型犬は嫌いなので」と言っただけだった。

 

 

 

二人が結婚した1856年の年末から、マクシミリアンに、ハプスブルク家の領邦であった、ロンバルディア=ヴェネツィア総督就任の話が、持ち上がった。

当時のイタリアは、ハプスブルク家からの独立運動が激化し、かつてオーストリア皇帝夫妻のフランツ・ヨーゼフとエリーザベトが来た時も、冷ややかな態度で応対していた。このように、困難な政治情勢である事から、1857年の

1月24日に、シャルロットも、困難な任務になると思うが、努力したいと書いている。

1857年の4月19日、マクシミリアンは正式にロンバルディア=ヴェネツィア州総督として就任し、シャルロットと共に、ミラノに赴任していった。

 

 

 

シャルロットは、総督夫妻として赴任してきた時には、 イタリア語を完全に習得していた。 彼女は、この国の見事な色彩と、音楽を愛した。二人は、この国での

友人達もでき、シャルロットは総督夫人として、舞踏会やレセプションなどを主催した。

しかし、上流階級程、ハプスブルク家支配からの、イタリア独立を巡り、ハプスブルク家に対する敵対心が強く、シャルロットのこのような招待に対しても、冷淡な反応をする人々が、多かった。

以前にこの地方を訪れ、オペラ観劇にも

来た、オーストリア皇帝夫妻も、冷たくあしらわれていたのが、象徴的だった。

このような事から、招待客は市民階級の人々の方が多かった。しかし、マクシミリアンとシャルロット夫妻は、総じて市民達からは、好意を持たれ、シャルロットは、この地方で幸せな生活を過ごしていた。またシャルロットは総督夫人として、州内の学校や病院、慈善団体などの施設を訪問し、各所に寄付をした。

夫妻は初め、ロンバルディア・ヴェネツィア総督夫妻として自由主義的な政治を行い、 イタリア市民達からも、 好感を得ていた。サルディーニャ王国首相カブールは、当時イタリア各地に広がっていた「統一運動」を推進していた。

このような中、ついにサルディーニャ王国とオーストリアの間で、

1859年の6月24日に、

「ソルフェリーノの戦い」が勃発した。この時、サルディーニャの支援を理由に、ニースとサヴォイアを割譲してもらったナポレオン三世も、イタリアの独立支援を理由に、参戦した。フランス軍に、オーストリア軍は敗北し、当時ハプスブルク家の領邦だった、ロンバルディア=ヴェネツィア州は、サルディーニャ王国の物となった。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフは、このような、当時のイタリア方面の政治情勢の緊張が高まっていくのをの当たりにして、ハプスブルク家の、ロンバルディア=ヴェネツィアの領邦援護のために、軍事力の補強を図ろうと決意する。しかし、従来から兄の保守主義政策を、度々批判していた、マクシミリアンが、赴任先のロンバルディア=ヴェネツィアで、自由主義政策で市民達から人気を得ている事に、皇帝は警戒感を募らせた。

この頃のウィーン宮廷は、彼や側近達、ゾフィー大公妃などの保守派の勢力が、強かった。

当時のこのようなフランツ・ヨーゼフの、ロンバルディア=ヴェネツィアへの対処を巡り、従来の兄と弟の政治的見解の対立が激しくなっていた事もあり、

 フランツ・ヨーゼフは、この「ソルフェリーノの戦い」前後の時期に、マクシミリアンを総督解任した。

1859年の6月、マクシミリアンとシャルロットは、トリエステのミラマーレに戻った。

 

 

 

 

  そしてマクシミリアン達は、 ミラマーレ宮殿で無目的に日々を過ごすしかなくなってしまう。マクシミリアンは趣味の庭園作り、シャルロットは読書などをして過ごすようになった。そんな時、マリア・イグナティア・フォン・リユッツオウ伯爵の息子でメキシコの外務大臣でありカトリックで保守派の、ホセ・マリア・グティエレス・エストラーダが、 マクシミリアン夫妻に、マクシミリアンのメキシコ帝冠を持ちかけてきたのである。

当時のメキシコは、1857年から自由主義派と保守派の内戦の、「レフォルマ戦争」起きており、これによりメキシコ国内は荒廃していた。

1861年に、自由主義派のメキシコ大統領ベニート・ファレスが、首都メキシコシティを占領し、何とかこの内戦を終結させた。

しかし、打ち続く長年の内戦により、当時のメキシコの財政は破綻状態であり、同年の6月には2年間の対外債務の利子支払い停止を宣言しなければならなくなる。そしてこれがヨーロッパの債権国を怒らせる事になる。

12月、イギリス・フランス・スペイン連合軍がカリブ海の港町のベラクルスを占領、そしてファレスに利子支払いを迫った。これはファレスと戦っていた保守派達の手引きによるものだった。メキシコを含む中南米はアメリカ合衆国の範囲内に当たるが、アメリカは、この頃「南北戦争」で手一杯であり、この三カ国の動きに反論する余裕がなかった。

この内イギリス軍とスペイン軍は直ちにファレスとの話し合いを済ませ撤退したが、フランス軍だけはメキシコを植民地化する野心を抱き、首都メキシコシティへと進撃した。そしてフランス軍は6月10日には、首都メキシコシティを占領した。

ファレスはメキシコの北部へと逃走し、ファレスを駆逐する事に成功した保守派は、どこかヨーロッパのカトリック国から君主を迎え、メキシコに君主制を

樹立しようと計画したのである。



このような時に、フランスの影響下でのカトリック帝国建設の野心を燃やす、ナポレオン三世とウージェニー皇后は、イダルゴを通じて、満たされない野心を抱えながらも不遇をかこっていたマクシミリアン夫妻に、メキシコ帝国の王冠を打診してきたのである。

すでに、保守派の帝政主義者のメキシコ大使ホセ・マヌエル・イダルゴが、スペイン系メキシコ人である事から、この関係を通じ、ナポレオン三世の皇后で

スペインのモンティホ伯爵の娘であったウージェニーに、その魅力と如才ない物腰でメキシコにカトリックの帝政を確立するという夢を吹き込んでいたのである。早速、フランス皇帝も、皇后もこの計画に夢中になった。

特に皇后ウージェニーにとっては、これは母国スペインの復権を目指す事でもあった。

 

初め、グティエレスは、アスペルンの戦いで、初めてフランス軍を破った、オーストリア大公カールにメキシコ皇帝の地位を打診していた。

結局、マクシミリアン夫妻はメキシコ王位の話を受諾し、フランツ・ヨーゼフも同意した。そして1863年の10月2日に、

「ミラマーレ条約」が結ばれた。

この中での、メキシコ皇帝即位の条件として、フランスがこれまでメキシコ出兵に費やした全額と在メキシコのフランス軍の1867年までの給料をマクシミリアンが払うことを約束させ、それと引き換えにメキシコ駐留フランス軍の指揮権はマクシミリアンに任される事になった。しかし、フランスに支払う金額は多額なものであった。

 

 

 

 

ナポレオン三世側のどこか不誠実さの伴った約束を基礎とした、この危うい王冠を、二人は受け取ってしまったのである。

 

1864年の4月9日には、メキシコ皇帝に即位するに当たり、

マクシミリアンのオーストリア大公としての、王位継承権を、放棄する事が定められた。

 同年の4月10日に、マクシミリアンとシャルロット夫妻は、メキシコ皇帝・皇后に即位した。二人はミラマーレで戴冠式を行なった。 この式には、メキシコの代表団も出席していた。

 従来の歴史家達の見方では、メキシコ皇后の座に野心を燃やすシャルロットが、夫のマクシミリアン(マクシミリアンの方に肩入れするあまりというのもあるのか?)をそそのかした悪妻というように捉えられてきたようだが、彼女を知る人々の証言から考えて、確かに野心も持っている女性ではあったが、それと同じくらい、王女としての自分の大きな 社会的責任、そしてそれを通じて、自分には何ができるか?という高い社会参加意識も、持ち合わせた女性だったといえよう。この点においては、ハプスブルク家皇妃という大きな社会的地位にありながら、生涯その役割を果たす事から逃れ続け、ほとんど積極的に皇妃としての 役割を果たそうとしなかった エリーザベトよりも、よほどこの意識の高さは、

立派だと思われる。

 

 

 

 

1864年の5月28日、マクシミリアン達は、

帆船「ノヴァラ号」でベラクルス港に到着。

メキシコの首都に進むにつれ、高地、ポポカテペトルとイスタシワトルの火山などが見えてきた 。

グアダルーペ聖母寺院で正式に、マクシミリアンとシャルロットは、メキシコ皇帝夫妻として戴冠式を行なう事になった。 皇帝夫妻は、多数の豪華な馬車に、 華麗な衣装を着た侍女達と共に、首都の反対側に到着した。そして黒い衣装を着たパレードの護衛兵達も、付き従った。また、フランス軍司令官のアシル・バゼーヌ将軍、そしてフランス人外交官のシャルル・トリスタン・ド・マルキーズも一緒だった。

更に大勢のインディアン達が、シンボルの緑の枝を手に、「皇帝万歳!!」と歓迎の叫びを上げ、その声が鳴り響いた。また、教会の鐘の音も鳴っていた。

その頃メキシコ騎兵連隊のロペス大佐とフランス兵士達は、首都で待機していた。

6月12日に、皇帝一行はメキシコシティーに到着した。

マクシミリアンはメキシコの将軍の制服に、

ハプスブルク家の勲章の金羊毛勲章と新しく作らせたグアダルーペ勲章を下げていた。 シャルロットの方は、肩を覆うマントには最高級のベルギーレースが付けられ、

その黒髪には銀色に輝くダイヤモンドの王冠が置かれていた。皇帝の馬車の近くには、新しく皇帝の護衛兵の司令官になった、バゼーヌ将軍とボンベル伯爵が控えていた。 メキシコの首都は、ヨーロッパから皇帝夫妻を迎えた事を名誉に思っていた。

皇帝夫妻を迎え、花輪と旗であらゆる所が飾られて祝われた。窓とバルコニーには、人々が混雑し、手を振っていた。

花の雨が降らされ、爆竹が炸裂した。

メキシコの人々は歓喜し、終わる事のない歓声が上がり続けた。この様子に、皇帝と皇后は、これまでの旅行の道程の全ての苦労や、今後の気がかりを忘れる思いだった。 すでに大聖堂では、大司教のラバスティダが待っていた。厳かな賛美歌の中で、メキシコ皇帝夫妻の即位が祝われた。

これ以降、シャルロットは「メキシコ皇后カルロタ」となる。皇帝と皇后は、 グアダルーペ聖母寺院の前の広場で、ひざまずいた。 これに続き、皇帝宮殿で煌びやかな教会儀式が行なわれた。それは巨大な宮殿の一室で行なわれた。皇帝夫妻は、天蓋の下で政府高官らと対面した。 メキシコの女官達は、抱擁とキスの挨拶を新しいメキシコ皇后のシャルロットにした。

 

 

  夕食後には、印象的な花火の打ち上げがあった。

その間に、外の広場には、歓喜しながら人々が集まり、皇帝夫妻はバルコニーに呼ばれた。

その後二週間に渡り、軍事パレード、大舞踏会、オペラのガラ公演など、絶え間ないプログラムが催された。  彼らは、チャプルテペク宮殿に住む事になった。メキシコ皇帝夫妻は、若々しく、熱意に溢れていた。彼らはメキシコの近代化と、自由主義的改革政治を目指していた。

まず、ボロボロになっていたメキシコのインフラ整備、道路の安全に当時激しかった汚職の除去、教育改善、そして貧民救済とメキシコ入植の促進に取り掛かった。 

皇帝夫妻は、メキシコ国内の主要都市を 巡行した。人好きのするマクシミリアンは、各地で温かい歓迎を受け、国民に好感を抱かれた。護衛を申し出たフランス軍が心配していたようなトラブルも、

起こらなかった。

 

  

メキシコ統治を開始した皇帝夫妻は、すぐに国内の難問に直面した。 メキシコの前大統領で、フランス軍の勢いに押され、当時メキシ北部に追いつめられていた、ベニート・ファレスが開始していた、教会財産の没収問題についてである。保守派達の思惑とは異なり、マクシミリアンとシャルロットは自由主義者であり、この問題に対してもファレスのこの方針に賛成を示し、 二人はそれがメキシコ国民のためになると考え、以前のファレスが行なった、教会財産の没収を継承し、更に当時メキシコ北部で抵抗のゲリラ戦を続けていたファレスに対して自分の政府への入閣を呼びかけた。

ファレスは以前から、教会・聖職者達が莫大な土地を所有して、彼らがその管理を怠っていると考えていた。 そのため、これを接収して一般の農民達に売却、有効活用させようと考えていた。レフォルマ戦争の最中には、 教会の全財産の国有化も行なった。しかし、一般の農民に売却とはいっても、彼らには土地を買う金も法的な識も不足しており、現実には少数の富裕者達が広大な土地を買い占めるという事態になっており、ファレスの意図とは異なる結果を生んでいた。

しかし、この皇帝夫妻のこの教会財産の没収路線を継続というのには、メキシコ国内の保守派や、ローマ法王ピウス九世も失望させる結果となった。

(最初にこの法律を定めたファレスは、その後、ピウス九世から破門されている。)

 

また、これには当然国内の聖職者達も反発を示した。二人は、国内の保守派や聖職者達と話し合いを行ない、この路線を継承する事への理解を求めた。

シャルロットの説得力ある話術もあり、ひとまず、彼らは静まった。

ファレスの方は、マクシミリアンからの帰順の呼びかけには応じず、依然として北部の各地でゲリラ戦を続けていた。

こうして、皇帝夫妻は教会の財産問題への対応を示した。メキシコの大臣達との会議の際に、マクシミリアンが失敗する事があり、皇后のシャルロットが摂政を

務める事になり、夫のマクシミリアンを手助けする事になった。