メキシコ皇帝マクシミリアン一世最後の瞬間(1882年ジャン・ポール・ローランス)
メキシコ皇帝マクシミリアン一世最後の瞬間(1882年ジャン・ポール・ローランス)
ベニート・ファレス
ベニート・ファレス
メキシコ皇帝マクシミリアンの処刑(1868年エドゥアール・マネ)
メキシコ皇帝マクシミリアンの処刑(1868年エドゥアール・マネ)
ポルフィリオ・ディアス
ポルフィリオ・ディアス

ケレタロは、徐々に包囲されていった。

人々は、弾薬の不足に対し、紙から紙薬莢弾薬を製造し、また教会の鐘を溶かして、大砲にした。 更に劇場の屋根の鉛も、

溶かされて弾薬にされた。 そして、いよいよ食料も尽きてくると、 馬も殺されて、食肉とされた。 また、修道女が毎日、皇帝のために、 小麦粉で小さなパンの塊を焼いた。

4月の終わり、完全にケレタロはファレス軍に包囲されていた。ケレタロの住民達は、

この1カ月近い包囲の中で、強く希望が

衰えていった。そしてその後には、彼らの中への帝国への信頼と忠誠も、失われていった。 彼らの、それらの放棄が続いていった。ケレタロの住民達は、ファレス軍への抵抗に、すでに十分苦しんでいた。

そしてついに敵軍は、ケレタロの都市の

水の供給を断った。そして、ついに帝国

そのものの運命も、閉ざされた。

 

 

 

 

しかし、そのような中でも、皇帝軍が大きな成功を収めた事があった。ミラモンが、

ファレス軍を撃退する事に成功したのである。しかもそれだけでなく、戦利品である、

二〇丁の銃と、500人の捕虜まで付いていた。

 

 

しかし、ファレス軍の優勢は変わらず、

ついにケレタロは陥落した。

メヒア将軍、ザルム公とオーストリア軽騎兵連隊、 メキシコ猟兵大隊、 騎兵連隊と 皇后騎兵中隊大佐ロペスは、皇帝を守らなければならなかった。

メヒアのインディアン部隊が、一番大きく兵士の数を減らしていた。

 

 

 

すでに、ファレス軍の包囲から、72日間が経過し、5月15日の朝になっていた。

この間に、ロペスは、敵軍の防衛線の中に潜入していた。そして、おそらく皇帝マクシミリアンも、その事を承知していた。

この時まだ、彼はファレスとの和平の望みを、捨てていなかった。 そのため、ロペスを使者に、ファレスとの和平交渉の仲介に行かせていた。

その時すでに、ロペスは裏切り者

だったのか? あるいは、本当に、

この時の交渉者ロペスは、マクシミリアンによって送られたのか?

 ロペスは最初からエスコベドに

無条件降伏を、要求されたのか?

 彼らに贈収を与えられたのか?

おそらく、ロペスは自分の自由と、

多額の金を交換条件に持ち出された。そして、皇帝側の砦を平和に譲り渡す事で合意した。

皇帝達は、ケレタロから逃走した。

そしてサンタクルス修道院に、避難した。

しかし、マクシミリアンを裏切ったロペスは、ファレス達に、彼らのいる場所を、

密告したのである。この出来事は、5月15日の朝の、ザルム公の日記に書かれて

いる。「朝、騒々しい物音がした。そしてその十分後、ロペスがやって来た。そして、こう言った。

「急げ、彼らは皇帝の命を助けるつもりだ。そして敵軍は、すでにこのクルスに

やって来ている。」

これを聞いたザルムは、急いで助けを

呼ぶと、皇帝の許へと走った。

マクシミリアンは、すでに服を着ていた。

彼は疼痛のため、ほとんど一晩中眠っていなかったのである。「ザルム、我々は

裏切られた。」 ザルムは、外へと急いだ、

そしてそこで兵士に見つかった。

ザルムが門の所へとやって来た時、

それを目撃した。ちょうど、エスコベドの

軍隊が、壁の穴を通り抜けて、こちらへとやって来る所だった。ザルムは、マクシミリアンの腕を摑むと、こう言った。「陛下、あそこに敵がいます」

ロペスら兵士の一団が、やって来ていた。

かつてロペスは、ミラモン、マルケス、

メヒア、メンデス将軍らと同じく、マクシミリアンが信頼する、メキシコの軍人であり、

友人でもあり、何かとよくしてもらっていた。

しかし、彼は7000ペソで、皇帝を敵軍に

売ったのであった。

修道院から脱出した、マクシミリアン一行は

そのまま、セロ・デ・カンパナス(鐘の鳴る丘)に、上がった。マクシミリアンは、まだ残っている皇帝軍が いないかと、望みを抱いて、丘に向かったのだった。 ほとんど皇帝軍の兵士達は、逃げ去ってしまっていた。

メヒアにも、まだ残っている軍隊がいないかと尋ねて みたが、その結果見つかったのは、 騎兵隊の一隊だけだった。

その内に、敵軍の歩兵連隊と騎兵隊の

四つの大軍のほとんどが、丘を包囲した。

もはや、皇帝マクシミリアンには、降伏しか選択肢は残されていなかった。

その内に、エスコベドにより、 マクシミリアンはサンタクルス修道院に連れていかれ、

そこに幽閉された。この72日間の抵抗の後、 ケレタロは陥落し、皇帝軍2000に

対し、ファレス軍40000になっていた。

 

 

 

 

マクミリアン達は、二日間サンタクルス修道院に幽閉された後、その後はカルメル会

修道院の、ラ・テレシタ修道院に、移された。住民達の皇帝に対する熱意は、

完全な同情からだった。女性達は、皇帝の不幸に同情し、彼のために黒い衣装を纏った。このような様子に気付いたファレス側により、この修道院の持ち主を、皇帝達から

引き離してしまった。しかし、当時依然として食料不足が続いていたケレタロだが、

サン・ルイス・ポトシの富裕な商人が、

皇帝のために食物を何とか調達して

やった。この頃、精力的な、ザルム公妃

アグネス・ラーレックは、この場所を訪れ、

エコスベドに、皇帝と夫ザルム公フェリクスへの面会許可を求めた。しかし、彼女の

頼みは、全く聞き入れてはもらえなかった。

この時、ファレスは、皇帝マクシミリアンと

将軍達を、軍事裁判にかける事を、

計画していた。

マクシミリアンは、これまで自分が、

生きてヨーロッパに帰れる事を、

信じて疑わなかった。しかし、今やその願いが実現するか、あやしくなってきたのを、

感じるようになっていった。皇帝や夫との面会を断られたアグネスだが、彼女はその後も努力して交渉を続け、皇帝の幽閉されている場所を、もう少し快適な場所に移す事を、要求した。

ついに彼女の努力が実り、数日後に、

皇帝達は、カプチーノ修道院に移された。

こうしてマクシミリアンに、二つの小さな

明かりとベッド、そして椅子が提供された。

以前の場所では、彼らは修道院の、

暗い地下室に入れられていたのだった。

一方、夫のザルムは、プロイセンの外交官マグヌス男爵に、マクシミリアンのために、

誰か優秀な弁護士を連れて来てくれないかと相談していた。 しかし、その内に彼らは、どうやらファレスが、マクシミリアンを死刑にするつもりであるらしい事に、気が付き、

ザルムが主に企画し、そしてマグヌス男爵などの協力により、マクシミリアンの逃亡計画が実行された事があった。

しかし、結局これは失敗に終わり、

マクシミリアンとザルムは、引き離されてしまった。 この後ザルムは、七年間投獄される事になった。

 

 

 

 

 

1867年の6月月12日から四日間、

皇帝マクシミリアンと、ミラモンとメヒア将軍の、 公開軍事裁判が、劇場で行なわれる事になった。ファレスの、悪趣味な趣向・パフォーマンスだった。しかし、これに対して初めマクシミリアンは、 皇帝の自分には逮捕権は及ばないとし、 また自分の尊厳からも、この命令をしばらく拒否し続けた。

実際にも、この裁判は 最初から、ファレスがマクシミリアン達を死刑にする事のみを、

目的としたものであった。

この間にも、ファレスに、ヨーロッパ各国から

マクシミリアンの助命嘆願が、数多く届けられた。また、アメリカの合衆国代表者も、

助命を訴えた。 そしてこの間に、喪服を

着た60人のメキシコの女性達が、

皇帝の助命を訴えた。

 

 

 

しかし、ファレスはこれら一切の嘆願を、

ことごとく撥ねつけた。

彼が望むのは、敵のマクシミリアンの死だけであった。この後も、夜半にファレスの指令本部がある、サン・ルイス・ポトシに潜入したアグネスが、彼の足元に跪いて、

目に涙を浮かべながら、どうか皇帝の命を助けて欲しいと哀願した。

しかし、これにもファレスは全く心を動かされる事なく、言った。マダム、そのように

自分の足元に跪かれて皇帝の命乞いを

されるのは、自分に対する侮辱である、

私が皇帝を罰するのではなく、法律と国民が処罰するのだと言い放った。

だが、これはファレスの、自分がマクシミリアンに、何があっても死刑判決を下そうとしている事への、自己正当化だった。

メキシコの、一般的な国民達は、皇帝の死を願ってはいなかった。あくまで、マクシミリアンの死刑という方針は、マクシミリアン達に、何年も手こずらされた事に対する、

ファレス自身の復讐の意味合いが、

大きかった。アグネスに続いて、ミラモンと

メヒアの妻とその子供達も、 皇帝や将軍達ヘの慈悲を訴えた。 しかし、それでも

やはり、ファレスの心は 動かされる事はなかった。 失意に打ちのめされたミラモンの妻は、 その時の彼の様子について、 こう言っている。 「私はあの人の心に、父親に対するように、夫に向かうように接してみたが、

あの石のような心を動かす術はなかった。

あの冷酷で復讐に満ちた心を、溶かすにはいたらなかった。」 何があろうとも、ファレスは容赦なく、揺るぎないままだった。

ファレスは、蔑まれてきた、インディアンの

貧しい 少年だった。 彼は、これまで

その境遇から抜け出すために、強い精力を傾けてきた。そんなファレスにとっては、

ヨーロッパの王族達は、反感を持つべき

存在であった。このような背景からも、

ファレスはマクシミリアンに情けをかける

必要を、全く感じなかった。

ファレスは「民主的独裁者」と呼ばれ、

自分の権力を、保守派、君主派、マクシミリアンらの敵に、はっきりと誇示した。

そしてそれは、自分の友人達のデゴジャード、モラ、プリエトに対してさえ、行なわれた。特に、メキシコ共和国で各地方の権力者だったカシーケ、軍司令官、州知事に対しても権力を、誇示した。かつてこれでもファレスは、聖職者であった事もあったが、このように厳格で、敵にも味方にも容赦のない人物であった。

彼のような人物を敵に持った事が、マクシミリアンの不運だった。

 

 

 

 

 

1867年の6月16日に、ついにマクシミリアン達の死刑判決が、下された。

マクシミリアンはファレスに、少しの寛大さも期待できない事には、とうに気付いており、この判決が下される事もわかっていた。

もはや、自分が助かるという幻想は、

少しも抱いていなかった。

また、この時彼は、妻のシャルロットが

発狂したまま、ミラマーレ宮殿で亡くなったという、 誤報を聞かされていた。

このため、マクシミリアンは妻の死を悲しむ手紙を、オーストリアの外交官ラルゴ男爵に宛てて書いている。そして、この時ラルゴ

男爵は、マクシミリアンに頼まれた、

捕虜のオーストリア兵士達の救助を、

必ず実行する事を約束した。

 

 

 

 

処刑までに、二日間の執行猶予が与えられたため、マクシミリアンの中には、

自分やミラモン、メヒア達への恩赦への漠然とした希望が生まれ始めていた。しかし、死刑の決定は変わらず、予定通り実行される事になった。三人の死刑執行日は、1867年の6月19日と決まった。

最後の望みを断たれたマクシミリアンは、

残された日々の中で、自分の気持ちの整理をする事にした。この間に、彼はファレスに

宛てて手紙を書いた。

「余の血が流血の最後の一滴となるように

心から願い、汝らの大義を称えん。」

処刑日の三時早くにマクシミリアンは起きると、すぐに服を着た。そして、同じく囚人となっていた、ミラモンとメヒアに会いに行った。

マクシミリアンは、一般的な黒いスーツを

着ており、その姿は、監獄の聖職者に称賛された。やがてマクシミリアンは、母親のゾフィー大公妃への形見として渡して欲しいと

して、侍医のボッシュに、自分の指輪とロザリオを渡した。朝の六時になると、

覆いをかけられた馬車に、三人が乗せられ、運ばれた。彼らの後に、マグヌス男爵と二人のドイツ人ビジネスマンが従った。

 歩兵連隊と騎兵隊が、馬車の護送役として従った。行く道々で喪服を着た人々が、

泣き叫びながら、立っていた。

一行は、処刑が行なわれる、セロ・デ・カンパナスへと向かっていた。

マクシミリアンは、夢を見ていた。

国は豊かになり、人々が人種と宗教に関係なく、平和に暮らすようになる事を。

しかし、この時すでに彼は気が付いていた。メキシコ帝国皇帝になるという事は、

冒険だったという事を。

やがて処刑場に着くと、兵士達が、

正方形の形に整列した。 その処刑場は、

低い四つの石壁で作られていた。

銃殺実行隊は、踏み出した。

 その時、マクシミリアンは実行兵士の全てに、金を渡した。そして、自分の顔は撃たないでくれと頼んだ。そして銃殺される直前に、こう叫んだ。

 「お願いがある。私は全てを許そう、だから私の事も許して欲しい、そしてもう一つの

願いがある。私の血、それが今新たに流されようとしている、そしてこれが、メキシコのためにならん事を。」そして最後はスペイン語で、こう叫んだ。

「メキシコ万歳!!独立万歳!!」

 そして指揮官が、射撃の合図の剣を

振り下ろした。それを受けて、皇帝マクシミリアンに向かって、一斉射撃が行なわれた。

マクシミリアンは、前のめりに倒れた。

しかし、彼はまだ死んではいなかった。

将校が彼に近づいていき、彼の体を剣で

裏返した。それから、彼の胸を指し示した。

とどめの銃撃が行なわれた。

そしてマクシミリアンは、死んだ。

享年35歳。 翌月の7月6日は、彼の35歳目の誕生日だった。 こうしてマクシミリアンは、自分の夢であったメキシコ帝国に殉じる事になった。その後、続いて二人の将軍達のミラモンとメヒアの処刑が、行なわれた。 しかし、ミラモンはこの死刑判決を拒否し、

そしてそれを非難した。続いてロペスの裏切りを非難した。更に依然として、彼はメキシコ帝国とメキシコ皇帝支持を表明した。

 

 

マクシミリアンと彼に最も忠実な将軍達は、 メキシコ帝国の理念の代償として、 自分達の命を支払ったのであった。

 そしてファレスは、インディアンの不屈さと粘り強さで、勝者となったのであった。ナポレオン三世との条約や、 ファレスのような人物の、寛容さを期待してしまった事などからも見られる、マクシミリアンの他人を信じやすい、人の良い性格や、彼のオーストリア大公としての理想主義的傾向が、彼を最終的にこのような悲劇的な運命へと導いてしまったのだった。

また、自分達は安全な場所から、表面的な同情だけを示してみせ、結局具体的な援助の手を差し伸べようとはしてくれなかった、

ヨーロッパ各国の姿勢も、影響していた。

 メキシコでは、マクシミリアンを処刑したファレスが、1867年の12月に、再び大統領になった。しかし、その後かつて共和国派として共に戦っていた、軍人のポルフィリオ・ディアスらの軍人層との内部抗争が始まり、何度が選挙で争ったり、ディアスが武装蜂起を起こすなどしたが、なかなかファレスは権力を手放そうとはしなかった。

しかし、1872年にファレスが急死した後、

1877年に、ついにディアスがメキシコ大統領に就任した。そしてファレス政権の、二倍以上の長さの長期政権を作り出した。

メキシコ皇帝マクシミリアンの処刑後、

メキシコ国内の保守派の勢力は、

大きく衰退し、その結果として、ファレスら

自由主義派が安定した政権を維持できる状況を、作り出したのである。

 

 

マクシミリアンの処刑から約半年後の、1868年の1月16日には、

メキシコのベラクルス港から、オーストリア大公、そしてメキシコ皇帝だった、マクシミリアンの遺体が、かつて妻のシャルロットと共に、

新世界への希望に満ちた船出をした

「ノヴァラ号」で、ヨーロッパに帰還した。そしてその4日後の、

1月20日には、マクシミリアンの葬儀が執り行われ、ウィーンの「カプツィーナー納骨堂」に埋葬された。そしてその柩は、メキシコの紋章と黄金の装飾で飾られていた。

更に、1962年には、マクシミリアンのブロンズ像が作られた。一方、ナポレオン三世は、メキシコ皇帝マクシミリアンを見捨てた事で、その威信と名誉を大幅に低下させる事になった。

メキシコ皇帝 マクシミリアンの処刑後、フランス皇帝夫妻が、オペラ観劇など外に姿を表わすと、市民達からの激しい罵声が飛んだという。 結局、莫大な予算と人員を投入し、 多額の赤字を出して失敗に終わったナポレオン三世のメキシコ遠征は、フランス国民達の大きな非難を受ける事になった。

ベルギーのバウハウト城に幽閉されていたシャルロットは、愛する夫マクシミリアンの死から、60年も経った、1927年の1月19日の朝7時に、インフルエンザにより、バウハウト城で死去した。

享年86歳だった。

死の前日、夕食の時に、彼女はいつも壁に掛けていた、夫マクシミリアンの肖像画を、なくしてしまった。

それは、ダイニングルームに隠れていた。やっと肖像画を見つけたシャルロットは、こう言った。

 

「でも、ドアを閉められてしまったわ。」そして更に、こう要求した。

 「願いがあるの、大公に会いたい。」

 当時の彼女は、数々の遺産を相続し、皮肉な事に、ヨーロッパ一の

資産家となっていた。

 

 

この間、ヨーロッパの政治情勢は、

激動の時代を迎えていた。

メキシコ遠征の失敗も、大きな原因となり、フランスの第二帝政は崩壊し、ナポレオン三世は退位し、妻のウージェニーと亡命を余儀なくされた。オーストリアの方では、すでに何十年にも渡り帝位にあった、シャルロットの義兄、皇帝フランツ・ヨーゼフも、86歳でこの世を去り、その甥夫婦のフランツ・フェルディナント皇太子夫妻も、サラエボ事件で暗殺され、その後、第一次世界大戦が勃発し、すでにカール一世の時代となっていた。

 またベルギーでは、やはり長寿だった兄のレオポルド二世も、すでにこの世を去り、シャルロットの甥のアルベール一世の治世となっていた。シャルロットは、家族達と同じ、ラーケンのノートルダム大聖堂に埋葬された。 しかし、なぜかベルギー王家の地下礼拝堂の家族達と

同じ場所には、彼女だけが埋葬されていない。その側の礼拝堂の、

重いブロンズの扉の閉められた中にある柩に、シャルロットは埋葬されている。そしてすでに、色褪せたベルギーの旗が立っている近くに、

彼女の大理石でできた、奇妙な銘板がある。そしてそこには、こう刻まれている。

 「マリー・シャルロット、ベルギー王女、オーストリア大公マクシミリアン未亡人 

1840年―1927年」

 なぜか彼女の称号の内、「メキシコ皇后」という称号だけが、欠けている。なぜこの称号だけが、抹消されているのか?

メキシコ皇帝だった夫のマクシミリアンの

方が、メキシコの紋章で柩を飾ってもらって

いるのとは、対照的である。

そして、なぜシャルロットだけは、

ノートルダム大聖堂の地下の礼拝堂に

ある、同じベルギー王家の墓所に、

埋葬されていないのか?

理由は、謎に包まれたままである。