メキシコの各地から届くのは、フランス軍の死者のニュースばかりだった。
人数の死者が発生していた。フランス国民からは、この事に対して皇帝に対する批判の声が、大きくなっていった。これを受けて、内閣でもフランス軍の撤退を巡り、
遠征に、フランスが費やした費用は莫大であり、またフランス軍の犠牲も大量だった。
ナポレオン三世は、マクシミリアンと約束した、メキシコ遠征軍の、早期撤退を求める声を静めなければならないという、
すでに、皇后のウージェニーも、
フランス軍の早期撤退に賛成していた。
1865年の11月29日に、ナポレオン三世は、もうフランス軍を撤退させなければいけない可能性について、メキシコ皇帝マクシミリアンを説得する必要があると、バゼーヌに宛てて書いている。
「皇帝マクシミリアンは、理解する必要が
ある、これ以上フランス軍がメキシコに留まらない可能性について。 彼は、より少ない劇場と宮殿を建てるべきだった、彼は資金の消費が激し過ぎたように思う、
そしてこれもすでに公安の報告で、知らされていた事だ。」
マクシミリアンは、ナポレオン三世が、
近い内にフランス軍を撤退させる事を検討し始めている事を知り、まだフランス軍を
メキシコから撤退させないで欲しいと、
必死に手紙で訴えた。
彼は、今やファレス軍が、首都の遠方の周辺にまで、出没してくるようになってきている、まだメキシコはこのように危険な状態である、私の最良の友皇帝ナポレオン、良き信頼する友人、こんな状況の時に私の懇願を退け、フランス軍を撤退させてしまう事は、
あなたの名誉、そして私達の信頼と親密な友情を脅かす事であると、手紙の中で訴えた。 マクシミリアンは最後に、ナポレオン三世との、これまでの友情に縋ろうとしたのである。 この頃ヨーロッパは、戦争の暗雲に覆われていた。1866年の7月3日に、
ケーニヒグレーツの戦いで、オーストリアがプロイセンに敗戦したのである。
このオーストリアの敗戦は、フランスの内閣にとっても衝撃をもたらし、彼らが困難な
状況に陥る事になった。今後可能性が
あり得る、プロイセン軍の侵攻により、
フランス海軍の軍港である、トゥーロンが
危機に陥る可能性があったからである。
今回の戦争の結果が、フランスのメキシコへの介入を終了させる時期を、
より早める事となった。1866年の1月15日、
フランス皇帝ナポレオン三世は、メキシコ皇帝マクシミリアンに、最後通告といえる手紙を書いた。
「私の弟殿!私はあらゆる困難を考慮した。その結果、それは不可能である。
もうこれ以上、メキシコでの軍団を編成するための援助資金の提供を、議会は認める事ができない。 私は陛下に宣言する。
最終的な、メキシコ駐屯中のフランス軍撤退開始日は、今日に決定した。
なるべく今日の早期に、一年以内にフランスに向けて撤退するつもりである。
現在、フランスは危機的状況に置かれており、私はトゥーロンの守備強化が必須だと確信している。しかし、私は信じていない、
私の今回の処置が、陛下に大きな衝撃を与える事はないだろう。今回の撤退は、全て情勢の変化が、私に行なわせたものだからだ。
陛下の良き兄ナポレオンより。」
このナポレオン三世の姿勢に、マクシミリアンは深い失望と苦悩を感じた。
かつては、双方の夫婦共に、蜜月時代だった事もある、信頼と友情を抱いていたフランス皇帝夫妻に、メキシコ皇帝夫妻は、
見捨てられる事になったのである。
マクシミリアン・シャルロットとナポレオン
三世・ウージェニー皇帝夫妻は、
以前は手紙の中で、それぞれ、「兄・弟」・「姉・妹」と呼び合う程に、友情を抱いた関係だった。
マクシミリアンは、もう一度、信頼する、
メキシコの枢密顧問のエロインに、
フランス皇帝への自分の手紙を持たせて、
援助の継続を訴える事にした。
しかし、エロインの訴えは、パリで冷ややかな拒絶にあった。 そして、ブリュッセルの
レオポルド二世に至っては、全く取り合おうともしてくれなかった。そしてオーストリア
皇帝フランツ・ヨーゼフも、再度の出発が
予定されていた、オーストリア義勇兵軍団の
派遣を、取り消してしまった。
原因は、今後もプロイセンとの間の戦争が勃発する事が予想され、それに備えるため、メキシコに兵力を割く余裕がなくなっていたからである。また、これに関連して、
このような緊迫した時期に、アメリカ合衆国との間にも、よけいな軋轢を起こしたくなかったからである。
この間にも、常にメキシコの軍事関連の、
凶報がマクシミリアンの許に届いた。
ついに、フランス軍が撤退を始めたのである。マクシミリアンは、現在自分が置かれている、絶望的な状況を、はっきりと理解し始めていた。マクシミリアンは、このような危機的状況から、退位する準備を考え始めていた。しかし、そこにシャルロットが介入を始めた。 彼女は、今夫も、かつての祖父ルイ・フィリップのように、退位しようとしている事に、恐怖で身震いした。
彼女の祖父は、1848年の「2月革命」に
よる退位後に、亡命先のイギリスのクレアモントで、失意の残りの生涯を送った。 また、幼いシャルロットの記憶には、 フランス国王ルイ・フィリップ退位後の、 祖父母や母の
悲嘆の姿が、強く焼きついていた。
そして、ルイ・フィリップ退位の二年後に、
祖父ルイ・フィリップと母ルイーズ・マリーが、相次いで亡くなった。これらの経験から、シャルロットの中では、退位とはとても
悲しく辛く、惨めなものであるという、
トラウマになっていた。
また、ここでおめおめとオーストリアに戻ってくれば、自分達には侮辱と不名誉が待っているのである。
きっと宮廷人達は、自分達夫婦を嘲るのではないのか?そして、かつて皇帝フランツ・ヨーゼフが、マクシミリアンに気前良く与えてくれた補助金を、また払ってもらえるのか?これらの予想や疑念が、
シャルロットの頭をよぎった。
去年に、父の国王レオポルド一世と祖母のマリア・アメリと、大切な二人の人々を失っていた事も、彼女をこのような、神経衰弱状態に追いやっていた。
そして、彼女は毎日続いた、ミラマーレでの自分達の、あの退屈で希望のない、
無為な日々には、戻りたくなかった。
また、シャルロットの中の、ヨーロッパ王族としての責任感と名誉から、 このような状態のままのメキシコから、 退位して、離れる事はできない、 メキシコ帝国の統治を続けなければならないという思いも、
働いていた。
シャルロットは、ヨーロッパに助けを求めに出発する前、マクシミリアンに次の手紙を残している。
「退位を表明なさるという事は、
それ自体が無能を証明するようなものです、そしてそれは老人に許された事であり、
馬鹿げています、それはまだ長い生命と
将来のある、34歳の王子がなさる事ではありません・・・・・・
私は知っています。皇帝がいる限り帝国が存在するのです。例え、六歩分の広さの
領土しかなくとも、帝国は皇帝のものなのです。資金がない事などたいした障害では
ありません。借金を申し出ればいいのです。努力すれば借金は得られます。
成功は獲得するものです。
お苛立ちにならない事です。
実現可能の事業を一端始めておいて、
最終的に不可能になったと言っても、
今更誰一人、それを信じません。
国を繁栄させる自信がおありであれば、
退位なさる事はないのです。
もし、それが無理だと考えていらっしゃるならば、それはご自身への裏切りでございます。その上、閣下が帝国救済の唯一の錨
だなどという考え方は偽りです。
結論を申し上げます。帝国こそがメキシコを救う唯一の方法です。神にそう誓ったのではございませんか。全力を尽くしてこの国をお救いください。いかなる困難があろうとも、陛下はその宣誓をお破りになってはいけません。この事業はまだ実現可能なのですから、帝国は存在すべきで、あらゆる攻撃から守る事が必要です。遅過ぎた、という表現は、この場合当てはまりません。早過ぎた、とするべきです。
この国に、文明をもたらす存在として、
そして救世主として、お姿を現わしてください。私は現在、これから援助を求めるために、ヨーロッパに向けて発つ所です。」
シャルロットは、再びナポレオン三世に、
軍事的・経済的援助を求める事を考えていた。早急に、今のメキシコ帝国には、
それらが必要であった。
彼女は、夫マクシミリアンもしたように、
フランス皇帝ナポレオン三世に向かって、
自分達のメキシコ帝国への、援助継続は、
皇帝及びフランスの名誉を守る事であると、
主張するつもりだった。
一方、すでに退位を決意していた
マクシミリアンだが、シャルロットとの議論の末に、説き伏せられ、ナポレオン三世に
再び援助を求めに、これからヨーロッパに旅立つという、彼女の意見に同意した。
1866年の7月9日、チャプルテペクで
シャルロットは、夫のマクシミリアンに別れを告げ、ヨーロッパへと 旅立った。三日前の7月6日は、マクシミリアンの誕生日だった。
これが、彼ら夫婦にとって、永遠の別れとなったのである。シャルロットと護衛などの一団は、夕方にプエブラに到着した。
そしてシャルロットはそこから、馬車でオリサバとコルドバを通過した。やがてベラクルス港に着いたシャルロットは、そこからフランス行きの汽船「皇后ウージェニー」に乗船し、フランスを目指した。
1866年の7月27日、マクシミリアンは
遠方を旅行中の妻に、手紙を書いた。
今日は、ちょうど彼らの九年目の結婚記念日だった。
「愛する人、良き天使よ。今日は、私の喜びの記念日だ、君、私の天使そして輝く命よ。
この九年間、君との生活が、私の生涯の中で喜びと慰めを与えてくれたと私は感じている。しかし、現在私は大変に厳しい時を過ごしている。私のこれまでの生涯の中で。私は大変な悲しみと不幸を感じている。」
ベラクルス港からメキシコを出発するまでも、だいぶ手間取り、現在も大変な旅を続けているシャルロットを、苛立たせた。
そして、フランスの湾港都市サン・ナザールに着いた メキシコ皇后を、更に苛立たせる出来事があった。これまでメキシコ帝国との
友好の印となっていた、メキシコの旗が取り払われ、 代わりにペルーの旗が町に飾られていのたのである。